文学の凝縮、アイドルの拡散

4.本気の感情のやり場について

 まれに、喜怒哀楽の種類はうまく形容できないのだけれど、とにかく強烈な感情に打ちひしがれる、ということがあります。

 その頻度はよくわからなくて、というのも過去のそういう記憶が鮮明に残っていなくて、1ヶ月に1回な気もするし、1年に1回な気もするし、10年に1回な気もします。

 大きな特定の事件のせいという場合もあれば、別段理由のない場合もあって。

 そういうときは、自分の生きている実感が風船のように軽々と感じられて変に楽観的になったり、逆にすっぽり穴にはまり込んで身動きの取れない不自由を感じて変に悲観的になったりします。

 得てして、この手の感情の矛先はどこにも見つかりません。

 例えば、他人に愚痴ってみたところで、それは決して解消されませんし、むしろ自分の感情から相手の感情へと正しくコピー&ペーストされないことが、何とも言えぬ屈辱感を強いてくるものです。

 概して、やりようがない、という感じ。

 やりようがないから、結局孤独に抱かれながら眠る羽目になりますし、寂しさは手の届かないところに引っかかったまま取り去ることができません。

 そういう病気にさいなまれると、いろいろと、大変です。

 けれども一方でこのことを「刺激」と言い換えれば、これは皆が適度に欲しているものでもあります。

 おやまあ、我々はなんと中途半端な生き物でしょう(誰?)。

 

 上述したような面倒くさい状況に、完全に対応しているとまでは思っていませんが、しかし純文学とは、少なくともそういう状況を追求して溶かしていこうとする(書き手と読み手の)試みのことだと捉えています。

 そういう理由から文学は好きだし、いや、好きというよりも取り組まざるを得ないだろうと背後から、内側から急かされるような気がするし、このブログをやっている所存です(本当?)。

 

 と、まとまりのない内容ですが、窓の外が急速に白み始めて悲しくなってきたので、こんなところで終わろうと思います。

 駄文失礼いたしました。