文学の凝縮、アイドルの拡散

5.『クリーム』村上春樹

 今回は、現在発売中の文學界7月号に掲載されている村上春樹氏の『三つの短い話』より、『クリーム』を取り上げます。 

文學界2018年7月号

文學界2018年7月号

 

 『クリーム』は、主人公が18歳のときに体験した不思議な出来事を友人に語っているという設定で、その不思議な体験とは、以前同じピアノ教室に通っていたけどさほど懇意でもなかった女の子からリサイタルに招待されて、山を登って会場を訪れるのだけれど、リサイタルは行われていなくて、自体がよく飲み込めず近くの公園で座り込んでいたら、老人が現れて「君は中心がいくつもあって外周を持たない円を思い浮かべられるか?」と説法される、といった感じのあらすじです。

 公園で主人公が休憩しているときの、徐々にファンタジックな空気が立ち込めてくる場面を以下に引用します。

 やがて遠くから人の声が聞こえてきた。肉声ではなく拡声器を通した声だ。話の内容までは聞き取れなかったが、その誰かはセンテンスをひとつひとつ明瞭に句切り、丁寧に、感情をいっさい込めずに語りかけていた。何かとても大事な事柄を、できるだけ客観的に伝えようとしているみたいに。ひょっとしてそれはぼくに(ぼくだけに)向けられた個人的なメッセージかもしれない、ふとそう思った。ぼくの間違いがどこにあったのか、ぼくが何を見落としていたのかを、誰かがそれをわざわざ教えにきてくれたのだと。普通に考えればあり得ないことだが、そのときはなぜかそのように思えたのだ。ぼくは耳を澄ませた。声は次第に大きく、聞き取りやすくなってきた。おそらく車の屋根に拡声器を載せ、坂道をゆっくりと上がってきているのだろう(決して先を急いではいないようだ)。やがてそれがキリスト教の宣教をする車であることがわかった。(p30)

  本作は、ひと区切りした文章の直後に「まるで何々みたいに。」と(仰々しい)直喩表現の一文を付加するという、『騎士団長殺し』で多用されていたあの手法が結構用いられています。

 また、老人が「中心がいくつもある円や」と連呼するシーンなど、ほとんどギャグと言ってよいほどですが、春樹氏の相変わらずの筆力によって、全体としてはやはり上質な文章表現に仕上がっています(なぜか上から目線)。

 一見ギャグみたいなフレーズを埋め込みながらも文学的世界観を成立させているのは、村上氏自身も「もし僕の作品に優れている点があるとすれば、ユーモアセンス」と何かで言っていた通り、春樹作品のお家芸という感じがしますね。

 私の友人が、『ノルウェイの森』における「マカロニ・グラタン」というフレーズをずいぶん気に入っていましたが、そういうのも同じですね。

 さて、春樹作品らしいといえば、本作の終わりの方で、体験談を語り終えた主人公が友人に述べた以下の内容は、氏の処女作『風の歌を聴け』のテーマにそのまま通じているように思えます。

 ぼくは言う。「ぼくらの人生にはときとしてそういうことが持ち上がる。説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱されるような出来事が。そんなときは何も思わず何も考えず、ただ目を閉じてやり過ごしていくしかないんじゃないかな。大きな波の下をくぐり抜けるときのように」(p38) 

  どこで読んだのか覚えていませんが、「大江健三郎村上春樹はなぜ同じテーマを繰り返すのか」という風な論調の文章を読んだことがあります。

 その評論の内容はもうほとんど記憶にないのですが、確かに、大江氏も春樹氏も、繰り返し繰り返し同じような舞台、同じような人間が描かれます。

 しかし面白いことに、この2人に対する世間的な評価はおそらく対極的で(もちろん世間的な評価というのは原則どうでもいいことなのですが)、大江作品はがっつり人間の本質をえぐり出そうとしている難解な大文字の文学で、春樹作品は俗世離れしたおしゃれな世界を描く手軽なサブカルっぽい文学、という風に広く認識されているのではないでしょうか(もちろん文学好きの読者たちにアンケートをとれば、少なくとも春樹氏に対する見解は大きく違ったものになるでしょう)。

 春樹氏とよく比較されるのは村上龍氏ですが、上述した二項対立にのっとれば、龍氏は大江氏の側に属するでしょう。

 特に龍氏は芥川賞の選考委員時代も、作者の「全身全霊感」みたいなものを最重要視していて、最後の2回の『しんせかい』、『影裏』についてはいずれも酷評していました。

 とこういう風に考えてみると、では春樹氏の全身全霊感とはどういうものかといった疑問が生じるのですが…。

 まず『ノルウェイの森』は、わかりやすい一般的な意味での全身全霊感がある作品だと思います。

 しかし『風の歌を聴け』は、そういう感じではありません。

 巨大なうねりのようなストーリー展開もなければ、主人公は終始落ち着いていて、何か成長を遂げるわけでもない(あらゆるものは通り過ぎる、という教訓(?)は得ますが)。

 同時代の著名な芥川賞受賞作品として、村上龍氏の『限りなく透明に近いブルー』や中上健次氏の『岬』がありますが、いずれも作者の全身全霊感が強烈に表現されています。

 たぶん『風の歌を聴け』が芥川賞受賞とならなかったのは、そういう部分に起因しているのでしょう。

 芥川賞って龍氏に限らず、概して新進気鋭なものを評価する傾向にありますし(知らんけど)。

 しかし、もちろん全身全霊感が文学を評価する最大の軸と言い切る人はなかなかいませんし、それこそ『風の歌を聴け』の冒頭では「よい文学は奴隷制度のもとでしか生じ得ない」、つまりあらゆる労働を奴隷に押し付けた高等遊民的生活の中でなくては文学は立ち上がらないみたいなことが書かれていて、それは先ほど述べた類の全身全霊感とは一線を画すものです。

 こういう「重い話題を扱わない文学」というのは、春樹作品に限ったものではなく、例えば自分が以前講談社の乃木坂文庫企画で久保史緒里さんの表紙に惹かれて購入した小川洋子氏の『ブラフマンの埋葬』(2004年度泉鏡花賞受賞)もそうですが、文壇で評価されている作品がわりとたくさんあります。

 

 と話が飛び火して収拾がつかなくなってきたので、『クリーム』に戻ると、これは、面白かったです。

 言うまでもないけれど、やっぱり文章がうまい。

 さっきまでの全身全霊感の話は、そもそも短編なので、適用するのが難しいでしょう。

 とか言ってしまうと、例えばボルヘスは生涯短編しか書かずに、しかも短編の一作一作に全身全霊を投じた上で、装飾を加えて無闇に長くするのは愚かだみたいなことを主張していたはずなので、自分で自分に反駁したくなりますが。

 

 といった感じで、だいぶ適当ですが、『クリーム』の感想文終わりです。

 他の2話も面白かったです。

 ところで『騎士団長殺し』の第3部はいつ刊行されるのでしょうか…。