文学の凝縮、アイドルの拡散

8.『美しい顔』北条裕子ーエンタメ的なコード

 最近何かと話題になっている『美しい顔』を読みました。

 本作は、二ヶ月前に発表された群像新人賞受賞作であり、現在芥川賞にノミネートされている作品でもあります。

 しかし最近になって、作中の一部の描写が他の著作にそっくりだということで物議を醸し、群像を刊行している講談社側は参考文献を付記しなかったことなど謝罪する一方で、本作の価値が貶められるわけではないと強く主張しました(たぶんだいたいこんな感じの流れ、詳しくは講談社のHP参照)。

 ともあれ、そういう経緯で講談社側は本作をネットで無料公開することを決定し、おかげで、図書館で『美しい顔』掲載号の群像の予約待ちをしていた私は、図らずもすぐに本作を読めるという僥倖を得たのです(同じ僥倖を得たという人は少なくないでしょう)。

 

講談社が公開した本作のpdfデータ)

http://book-sp.kodansha.co.jp/pdf/20180704_utsukushiikao.pdf

 

 

 本作の舞台は3・11直後の被災地で、主人公は家と母を失い弟と二人で避難所生活をしている女子高生です。

 多分、3・11を真正面から題材とした上でそれなりに高く評価された初めての小説と言ってもいいのではないでしょうか(私が知らないだけで他にもあるかもしれません)。

 昨年文學界新人賞芥川賞を受賞した『影裏』は、震災に対しては間接的に触れているだけですし。

 

 私は冒頭を読んで、何というか、作者の筆運びの「余裕」みたいなものを感じました。

 自信とも言えるような、何か力強い意思のもとに書いているような感じ。

 青年はジーンズをはいていた。青みの強いジーンズだった。ジーンズはそろーりそろりと動き、止まる。そしてシャッター音。また、そろーりそろり、止まってシャッター音。青年の動きが社交ダンスをしているように見えた。ダンボールでつくった私たちの家の通路をゆっくりと練るように 歩いている。優雅なダンスだ。ジーンズはけっして音を立てない。ひざをわずかに曲げ、そろーりそろり、ステップ、ターン。また、そろーりそろり、ステップ、ターン。私は青年を見ていた。青年は漆黒の巨大なカメラを顔に貼りつけて踊る。私はその動きを永遠に見ていられると思った。(p8)

 本作の文体の特徴は、主人公の女子高生が終始何かにむかついている感じと言いますか、外部の人間(や自分自身)に対する不平不満を言葉を変えて繰り返し繰り返し、述べ立てていきます。

 長い引用ですが、例えば以下の段落など、そういう特徴がよく現れていると思います。

 東京からやって来て避難所の様子を撮影している青年について、主人公が腹を立てている場面、長いですが、一気に読めてしまいます。

 私はね、けっしてあなたになんか明け渡してやりはしないんだ。情けを施しながらダンボールの縫い目を徘徊する気持ちよさをあなたになどくれてやりはしないんだ。だけどあなたは撮った写真のすべてを東京に持ち帰り眺めればいい。満足すればいい。だけど私たちの心はそこには映っていない。 あなたが撮った写真のどこにも映っていない。人々が同情や感嘆の声をあげてくれるかもしれないそれらの写真のどれにも私たちは映っていない。あなたには私たちの心を捉えることはできない。でもどうぞ、たくさん持って帰ればいい。だってわざわざ来たのだから。「テレビで見るのと実際にこの目で見るのとでは大違いですよ、言葉にならないんですから」と取材やボランティアで訪れた人が口を揃えて興奮気味に伝えるのを聞いてきたんでしょう。それならば瓦礫などきれいさっぱり撤去されてしまう前に是非ともこの目にも焼き付けておかねば、だって自分は将来ニッポンを代表するジャーナリストになるんだからって、そんな立派な思いで来たんでしょう。だったらたくさん持って帰ればいい。数が多ければ多いほど奇跡のベストショットにも出会えるでしょう。瓦礫の山に少し夕日が当たって美しく輝いてそこに一輪の花でも咲いててくれれば万々歳だ。そういうおめでたい写真も撮れるでしょう。瓦礫の中でも力強く咲き誇っていた一輪の花に今日見たダンボール生活の少女の凛としてたくましい表情 が重なったうんぬん。お涙ちょうだいの解説だってつけられる。でもひとつ言っておきたいのは、この災害をどっからどう撮ったって、誰が撮ったって、ある程度、涙ものの写真が撮れるっていうこと。そんな高価なカメラじゃなくても、七百円の使い捨てカメラでだって、ある程度、心を打つような写真が撮れるってこと。それは幽霊やUFOなんかを撮るのとおんなじで、たとえ小一の私の弟が撮ったってそこに映っているのが幽霊であれば周りはひゃっと驚くし、映っているのがUFOであればみんなが注目するんだよ。誰が撮ったって瓦礫の山は瓦礫の山なんだから。そこに芸術も創造もクソもない。そんなところに。だけどあなたはこの非常時をシャッターチャンスとばかりにパシャパシャやって持ち帰った写真のベストショットを自分のホームページのトップペー ジにでもするんでしょう。まるで自身の渾身の作品っていう ように。もしくは編集でもしてYouTubeなんかにのせるのでしょう。あるいはSNSで無料でばらまくのでしう。自分の優れた行動力、立派な思考、それらをぞんぶんに 披露しながらもあえてそれを卑下するようなコメントを添え て。あなたは人に認められていると感じることができるで しょう。人から尊敬されていると感じることができるでしょ う。自分には価値があるのだと感じることができるでしょう。ねえ、あなた。震災が起きてよかったじゃん。震災のおかげであなたは今これだけ尊く珍しい経験ができてるわけだけどめったにできない経験ができてラッキーじゃん。あなたみたいな創造性に乏しい人間には何らかの一大事が向こうからやってきてくれれば御の字でしょう。災害時じゃなかったらあなたは人の家の玄関を勝手にあけて土足で入り込んでくることだってできなかったろうし、その重厚なカメラレンズを無言でそこに住む人間の顔に向けることだってできなかったろうし、持って帰ったデータによって最先端のジャーナリ ストになったような気分だって味わえなかったでしょう。一 回でも多く「いいね!」してもらって自尊心を満足させることだってできなかったでしょう。お父さんとお母さんに褒めてもらうだけでは満たされない根深い劣等感をまぎらわすことだってできなかったでしょう。地面がぐにゃぐにゃに揺れて高さ十三メートルの津波がきてよかったじゃん。(p14)

 本作読んで思ったこといろいろあるんですが、例えば、設定がちゃんと現代的な感じとかいいなと思いました。

 3・11のノンフィクション作品等にもとづいて書かれているらしいので、それは当然と言えば当然なのですが、SNSなどが絡んでくることだけでなく、主人公が高校の準ミスだという設定が、いいな、と思いました。

 なんともいえないリアリティがある。

 そして、本作を読んでもっとも考えさせられたのは、「エンタメ的なコード」に関することです。

 本作は、特に「奥さん」が主人公に説法する場面など、エンタメ的な書かれ方をしている場面が多く目につくのです。

 その場面では、奥さんが主人公に対して、母の死を受け入れて生きるべきだみたいなことを弁舌豊かにしゃべっていて、しかしいわゆる「純文学」的には、「いやそんなこと他の登場人物にべらべらしゃべらせて主人公が人生観変わったりする展開は興ざめやろ」というつっこみを受けそうな感じがあるのです。

 とは言えまあ、文章力が担保されていれば、それは剥き出しの魂みたいな感じで、エンタメがどうとかではない超越的な文学性を獲得できる、と言うこともできるかもしれません。

 そういえば、2年前の群像新人賞受賞作『ジニのパズル』にも似た傾向があるかもしれませんね。

 しかし個人的な所感としては、『美しい顔』の方が、ずっとエンタメ的なコードに乗っているような気がします。

 ただ本作全体としては、エンタメという印象はあまり受けません。

 自分でも、どっちやねん、という感じですが。

 それは結局、主人公の心境変化が判然としていそうで微妙に判然としていないため、描写の曖昧な部分があるため、とかでしょうか(ラストの弟とのかけっこのシーンも、なんとも判然としないよさがあります)。

 

 最後に、本作は芥川賞にノミネート中ですが、受賞可能性についてはどうでしょうか。

 間違いなく新人的な強烈なエネルギーが感じられますが(上から目線ご容赦ください)、2年前『ジニのパズル』は芥川賞を受賞できませんでした。

 『ジニのパズル』のときは対抗の『コンビニ人間』が強すぎた、というのもあると思いますが。

 選考委員の中には、新人の一作目を受賞させることをよく思わない方もいるようですし、今回のトラブルのことも考えると、「芥川賞を出すには二作目を待とう、そこで本当の実力を測ろう」という意思決定が行われそうな予感がしますね。

 まともあれ、3・11を真正面から書いている以上、本作が現代日本文学の系譜において大きな意味を持つことは間違いないように思われます。

 

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

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