文学の凝縮、アイドルの拡散

9.乃木坂46 6th Year Birthday Live 感想ーシンクロする錯視

 打ち上げられた花火に、胸のすく思いがした。

 不思議な引力が働いているようだった。

 変色する火の粉がカーブを描いたあとには、くすんだ煙が少し滞留して、残らず夜空に溶けた。

 ステージから飛び出したひとつひとつの光景は、私の心の内まで流れて込んで、また別の記憶の糸を絡めとっていった。

 斉藤優里の赤らんだ顔。

 雨粒のしたたる堀未央奈の髪先。

 佐々木琴子に送られた拍手。

 中継先の画面に映る桜井玲香

 生田絵梨花の声。

 梅澤美波が指差した夕陽。

 そういう感覚の断片が、万華鏡みたいにくっついたり離れたりした。

 3万人のペンライトは、生命のリズム、単純で広大な脈動のリズムを描いていた。

 紫や緑の光の揺らめきが、太古の地球にはきっとこういう風景があふれていたんだろうという、不思議な想像を掻立てる……。

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今回購入したペンライト

 

 というわけで、乃木坂46の6th Year Birthday Liveの1日目と3日目に参加してきました。

 今回のライブでは、初の2会場(神宮野球場、秩父宮ラグビー場)同時開催という試みを行っていて、私は両日とも神宮でした。

 特に3日目の方はアリーナ席だったので、結構近距離でメンバーのご尊顔を拝することができました。

 

 さて、2日間ライブに参加して一番強く実感したのは、生きているって素晴らしいなあ、という生の自己肯定感のようなものでした。

 それは単なる一過性の快楽の経験として抱いた感懐ではなくて、未来へと伸びる文学的共感のようなものでした(文学的という言葉を乱用するのはよくないですね)。

 共感、というのは説明するのが難しい概念で、相手について情報的によく知っていることや、自分との類似性にはあまり関係なかったりします。

 それよりは、一見関係なさそうではありますが、試行錯誤ののちに自分と相手との間に横たわる距離感を適切に認識できた瞬間に、その相手に対して何らかの弱い接続感覚を得ることができるように思います。

 この「距離感を認識する」というのもまた具体的に説明することが難しくて(私が今思いつきで勝手に用いている表現だから)、今言った、相手について情報的によく知っていることとは相関しないようです。

 これは、個人の裁量次第と言えば身も蓋もないですが、けれどだいたいそういう風なものだと思っています。

 お互いがお互いをよく見えていないことを承知の上で、単純な一次情報的な景色とは異なる次元において、共通のものを見出そうとする試み、と言えばそれらしいかもしれません。

 アイドルを推すという行為は「偶像崇拝」という言葉で片付けられることがありますが、そのような表現を用いるならば、一方でアイドルの側もまた、偶像を信じ羅針盤として生きているはずなのです。

 でなければ、こなすことのできないタスクが多すぎるのです。

 アイドルの側が偶像を持つ、というのは、例えば、あまねくアイドルの共通事項として「ファンに感謝の言葉を述べる」ということがその十分な根拠たりえます。

 これは一見、道徳的な観点から自然であるがために見過ごされがちですが、全く別の観点、すなわちアイドルとして生きていく上で構造的に不可欠なことだという解釈もできるのではないでしょうか。

 アイドルとファンというのはある種の対立関係ですが、実はお互いが強い偶像を拠り所としている点で共通していて、その共通点があるからこそ、両者の距離感の認識や、ひいては文学的共感へと至る道が存在しているのではと思います。

 ライブの現場だろうが、家で推しメンの動画を見ているときだろうが、ひとりぼうっとしているときだろうが、相手と自分の錯視がシンクロしたことをなんとなく実感したときに、生の肯定感みたいなものがオーバーフローして、人間のもっとも高遠な充足感に到達するのではないでしょうか。

 

(めちゃくちゃ書きすぎたか?)