文学の凝縮、アイドルの拡散

11.『葉桜と魔笛』太宰治ー真骨頂の女性独白

 太宰治の『葉桜と魔笛』を読みました。

 青空文庫でも読めます。

 10ページ程度の短い小説ですが、『斜陽』などにも見られる太宰のお家芸、品が良くて感情的でつらつらとした感じの女性独白の文体が存分に発揮されています。

(ページ番号は、ちくま文庫版『太宰治全集2』による)

せめて、妹さえ丈夫でございましたならば、私も、少し気楽だったのですけれども、妹は、私に似ないで、たいへん美しく、髪も長く、とてもよくできる、可愛い子でございましたが、からだが弱く、その城下まちへ赴任して、二年目の春、私二十、妹十八で、妹は、死にました。そのころの、これは、お話でございます。妹は、もう、よほどまえから、いけなかったのでございます。腎臓結核という、わるい病気でございまして、気のついたときには、両方の腎臓が、もう虫食われてしまっていたのだそうで、医者も、百日以内、とはっきり父に言いました。どうにも、手のほどこし様が無いのだそうでございます。ひとつき経ち、ふたつき経って、そろそろ百日目がちかくなって来ても、私たちはだまって見ていなければいけません。妹は、何も知らず、割に元気で、終日寝床に寝たきりなのでございますが、それでも、陽気に歌をうたったり、冗談言ったり、私に甘えたり、これがもう三、四十日経つと、死んでゆくのだ、はっきり、それにきまっているのだ、と思うと、胸が一ぱいになり、総身を縫針で突き刺されるように苦しく、私は、気が狂うようになってしまいます。三月、四月、五月、そうです。五月のなかば、私は、あの日を忘れません。(p238) 

  本作の「私」にとっての妹は、『斜陽』の主人公にとっての母のような存在になっていて、つまり相手に絶対的な信頼、尊敬を抱きながらも、なんともいえない距離感が横たわっているような、そういう雰囲気がかもされています。

 絶大な崇拝心の中に垣間見える一抹の反逆性、脱却したいという気持ち。

 そういう感情の曖昧なゆらぎの描写みたいなのが、うまいです。

 

 プロの作家の文章は、みな一定以上の技術があって、その上にそれぞれの個性がのっかっているので、私は基本的に読んだ作品は全部好きなのですが、中でも太宰の文章は際立って好きです。

 なぜ好きなのかと訊かれるとなかなかどうして説明が難しいですが、やっぱり、話し言葉に近いくらい読みやすい文章の中にうまい表現がちりばめられている感じ、とかですかね。

 そう答えると、似たような文体が該当する小説家は結構いると思いますが、とりわけ太宰はぐいぐい読ませてくる力がえぐくて、格調ある文章が砕けていきながらも、しゅるしゅるしゅるっと綺麗にまとまっていく体験が快感、と言いますか。

 

 まあだいたいそういう感じで、唐突に終わり。

 

太宰治全集〈2〉 (ちくま文庫)

太宰治全集〈2〉 (ちくま文庫)