文学の凝縮、アイドルの拡散

18.『セヴンティーン』大江健三郎ー勃起させるもの

 図書館で『大江健三郎自選短篇』を借りて、『セヴンティーン』を読みました。

 

大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)

大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)

 

 

 大江の本でちゃんと全部読んでいるのは『われらの時代』と『万延元年のフットボール』くらいなのですが、本作を読んだときに、『われらの時代』以上に若くて荒い表現が連発されているので、主人公も十七歳ですし、てっきりこれは『われらの時代』よりも前に書かれた作品かと思っていましたが、少なくとも発表されたのは『われらの時代』より2年あとのようです。

 ちなみに『われらの時代』の主人公は大学生で、執筆時の大江の年齢もちょうどそれくらいでしたので、本作は大江が主人公を自分よりも10歳弱年下に設定して若い頃を思い出しながら書いたのか、あるいは若い頃にすでに書いてしまっていたものを発表したということになるでしょう。

 個人的には後者じゃないかなあと思います、なんとなく。

 さて、大江と言えば(特に若い頃に書いた作品においては)勃起という言葉に対して並々ならぬ思い入れがあるというイメージなのですが、本作では冒頭から、十七歳の少年が「勃起」について語り始めます。

 おれはいつでも勃起しているみたいだ。勃起は好きだ。体じゅうに力が湧いてくるような気持ちだから好きなのだ。それに勃起した性器を見るのも好きだ。おれはもういちど坐りこんで体のあちらこちらの隅に石鹸をぬりたくってから自涜した。十七歳になってはじめての自涜だ。(『大江健三郎自選短篇』所収『セヴンティーン』p213) 

 ですがこのあとで、主人公は「自涜する自分の滑稽さ」みたいなものについての煩悶を結構長々と述懐します。

 そういうのってテーマとしては、なんというか「あるある」な感があるのですが、大江の豪腕で奔放な筆力がそれをただの「あるある」では終わらせず、読者をもっとごつごつした岩間の隙間の深いところまで引きずり込みます。

 『われらの時代』では、高校生が天皇を爆殺する計画を立てて「これはおれを勃起させるぞ!」と言うのですが、本作でも「何が自分を勃起させるのか」ということがひとつ議題に上がっているような気がしました。

 まあ、「何のためにあなたは生きているんですか?」と質問されたときに「勃起するためです」と答えるのは私にとってもまぎれもない正解だとしっくりくるのですが、では何が自分を勃起させるのか、そのために自分は何を行うのか、そういうのに思索を巡らし始めると、なかなか収拾がつきませんね。。。

 で、本作では「勃起させるもの」として、主人公が「右」の組織に所属し勇躍していく仮定がそれに対応している気がします。

 以下は右翼団体の頭領から金を渡されて風俗を体験したシーンですが、このあたりはバキバキに本作らしさ、初期大江作品らしさ(?)に満ちた文章になっています。

おれは激烈なオルガスムの快感におそわれ、また暗黒の空にうかぶ黄金の人間を見た、ああ、おお、天皇陛下! 燦然たる太陽の天皇陛下、ああ、おお、おお! やがてヒステリー質の視覚異常から回復したおれの眼は、娘の頬に涙のようにおれの精液がとび散って光るのを見た、おれは自涜後の失望感どころか昂然とした喜びにひたり、再び皇道派の制服を着るまで、このどれの娘に一言も話しかけなかった。それは正しい態度だった。この夜のおれの得た教訓は三つだ、《右》少年おれが完全に他人どもの眼を克服したこと、《右》少年おれが弱い他人どもにたいしていかなる残虐の権利をも持つこと、そして《右》少年おれが天皇陛下の御子であることだ。(p275)

 わざわざ言うのもあれですが、ビックリマークとか「ああ、おお」とか同語反復とかを使うエゴイズムな感じ、それでいて硬質な語彙で構築された豪奢な文章と調和している感じが、まあ、初期大江作品の真骨頂ですよね(たぶん)。

 

 とだいたいそういう感じで。

 大江は個人的にも特に思い入れのある作家で、というのも『われらの時代』が自分が文学に関心を持つきっかけになった作品のひとつなので、まあ、今後もちょくちょく何かの折に読んでいくだろうと思います。

 では。