文学の凝縮、アイドルの拡散

30.ファンタジーの描写方法〜安部公房『壁』

 ブログを始めて約4ヶ月がたち、これでちょうど30本目の記事となりました。

 最近は映画の感想が続いていましたが、今回は原点回帰(?)して小説の感想を書きます。

 

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 

 

 安部公房の1951年の芥川賞受賞作『壁ーS・カルマ氏の犯罪』を読みました。

 安部公房と言えば、現実離れした世界をひとつ設定して、その中で生々しい、怖いような、知的で「リアル」な描写をつづっていくという印象がありますが、本作もまさにそういった小説です。

 以下は主人公が胸の中に(比喩でなく)吸い込んだ、雑誌の見開きの荒野の写真についての描写です。

 するとぼくの眼はその頁に吸いつけられるように動かなくなりました。砂丘の間をぼうぼうと地平線までつづく曠野の風景が頁いっぱいにひろがっていたのです。砂丘にはひょろひょろした潅木、空には部厚い雲が箱のように積み重なっていました。人影はありません。家畜はおろか、カラスの影さえ見えません。曠野を一面に覆う草は針金のようにやせて短くまばらで地面がすけて見えるほどです。草の根もとには砂がさらさらと風に流れてひだをこしらえています。(p28) 

 

 また以下は、「せむし(背骨の曲がった人)」と呼ばれていた者が腰を反らせすぎて「はらむし」になり、しまいには「ロール・パン氏」という呼称に変わって、映写機の前で詩を朗読したあとの場面です(意味不明)。

 ロール・パン氏は、その朗読のあいだも相変わらずそりかえるのをやめようとしなかったので、次第にわけの分からぬ塊りになり、体の各部が互いにめりこみあってついにすっかり消滅してしまいました。最後の一句を言ったときには、もう声だけしか残っていませんでした。

 そんな状態がありうるということを知ったのは、むろんこれがはじめてでしたが、ぼくは大して驚きませんでした。それどころか、そんな無意味な詩を朗読するようなものには当然起りうべきことだとさえ思いました。(p130)

 

 さて一般に優れたファンタジーの描写とは、空想世界にもかかわらずさも手の届く場所にあるかのようにリアルな物体の描写やリアルな心情の描写、と言及できるかと思います。

 で本作はどうかというと、まず本作では物体の描写はあまり詳細には行いません。

 「名刺が手を伸ばした」みたいな文を書いておいて、それ以上名刺からどういう風に手が生えているのかみたいなことについては描写しません。

 それがひとつ本作の大きな特徴だと思います。

 対して心情の方は、結構細かに描写します。

 細かと言うか、そういう状況であればこういう風に感じるだろうということを、リアリティー溢れる文章で叙述します。

 さっきの2つ目の引用の2段落目みたいな感じです。

 本作にはそういった「漠とした物体、くっきりとした心情」みたいな姿勢が一気通貫しています。

 

 それにしても、こういう風なたいぶ「ふざけた話」を、ちゃんと小説に仕上げることのできる筆力は、とても羨ましいですね。

 『壁』みたいなのが書けるんだったら、もう何書いたって小説が成立しちゃうっていうっていう感じがしますよね。

 私はこれまで主人公が女性であったり聾者であったりする小説を(趣味として)多く書いてきたのですが、これは私自身とは異なる人種を主人公に置いているということであって、つまりある意味でファンタジーを設定しているということです。

 「作り話」の想像を膨らませることが面白いし、また巧妙な感じがするっていうのもありますし、そこに間接的に自分の普段考えていることを投影できた瞬間というのが快感であったり、まあそうする理由はいくつかあると思うのですが。

 とにかくファンタジーの描写というのは、私にとってはそれなりに大きなテーマであって、私小説の対極に位置づいた作り話の純文学みたいなものに、私はいつからか強い関心を抱いていました。

 そういう都合があって、本作は、というか全体的に安部公房の作品は、私にとって恰好の文学教材となっています。