文学の凝縮、アイドルの拡散

76.柴崎友香『春の庭』

 

春の庭

春の庭

 

 

ちょっと前の芥川賞作品。

 

アパートに住む三十代の男を中心に、その隣人たち、周辺の建造物の輪郭を、さらさらと、それでいて柔らかい手触りで描く。たいした筋はない。悪くいえば退屈。がしかし、気づくと、読者は構造を失った不思議な浮遊感のなかに連れていかれる。テクストのはざまに、薄暗いやぶれが口をあける。手を差し伸べると、そこにはほのかなぬくもりがあり、確かに、ちいさくぼんやりと発光している。

 

 つまみも、ビールももうなくなっていた。雪に覆われた街は、静かだった。雪でなくても、この街は静かなのかもしれなかった。時折、屋根や木の枝から雪が落ちる音が聞こえた。音が重さそのものだった。白い結晶の塊は、温度を吸い取っていった。家も木も電線もアスファルトも空気も夜も、温度が下がっていった。(p127)