文学の凝縮、アイドルの拡散

文学の凝縮、アイドルの拡散

読んだ本の感想など。たまにアイドルの話をしています。

22.北野武『HANA-BI』を観て

 9月も半分が過ぎて、最近は夜に窓を開けるとひんやりした冷気が入り込んでくるようになりした。

 どうでもいい話ですが、今日近所のドン・キホーテセルバンテスの小説ではなく総合ディスカウントストアの方)で座椅子を買いました。

 シェアハウスを始めて1年半、残りは半年というタイミングでの購入ですが、買うのが遅すぎたと膝を叩いて悔いるほど、座椅子というものは使い勝手がよいです。

 

 さて本題に入ると、私は黒澤明北野武是枝裕和もほぼ全く作品を観たことがない映画初心者なのですが、今回友人に勧められて(というかその友人が勝手にTSUTAYAで借りたものを私の暮らしているシェアハウスに置いていって)、北野武監督・脚本の『HANA-BI』を観ました。

 全く知らなかったのですが、これは北野作品の中で世界的に最も有名と言ってよいくらいの作品で、「ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として40年ぶりとなる金獅子賞を受賞した」らしいです。

 

 で、鑑賞してみて、まあこれはだいぶいいな、と思いました。

 あまり映画を観たことがないので(1ヶ月ほど前に渋谷のシネマヴェーラという学生なら600円で観られる映画館で、フリッツ・ラングという人の『月世界の女』という1929年公開のサイレント映画を観た他に映画を観た記憶がない、あとデミアン・チャゼルの『セッション』を3ヶ月前くらいに観た)、あんまり他作品との比較もできないし、金獅子賞とやらを受賞するほどすごいのかどうかとかはよくわからないのですが、まあとにかくよかったです。

 いい描写、というかカットが、特に中盤以降たくさんあったと感じました。

 北野武演じる主人公とその妻が二人で過ごしているシーンはだいたいよかったですね。

 例えば二人で、ホテルとかによく置いてあるあの木製のパズルに黙って格闘しているシーンとか。

 なんというか、純文学を読むときの感覚で視聴することができました。

 ああこの描写はいいな、みたいな。

 

 今まで映画はなんとなく食わず嫌いしてきたのですが、小説について考えるのにもすごく生きる気がしたし、まあ純粋に映像自体が面白いとも思ったので、とりあえず黒澤明とか小津安二郎とか古典(?)の名作にいろいろ手を出してみたいなあと思いました。

 とりあえず新しくブログの記事に「映画」のタグを作った。

 

 以上。

 

HANA-BI [DVD]

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21.読みさしで終わった2つの小説についてー『送り火』と『春、死なん』

 近所の某巨大図書館では、新刊の雑誌は貸し出し不可。

 なので、新刊の文芸誌はこの図書館に行けば必ず置いてあって読むことができるので(基本的に閲覧している人がいない)、重宝しています。

 で数日前に、文藝春秋に掲載の『送り火』を読み始めました。

 これは先日芥川賞を受賞した高橋弘希氏の作品です。

 青森の小学生たちの日常の話。

 割と硬い文体で、暴力的な子供同士の遊戯の描写がある、みたいなことは事前に聞いていたのですが、読んでみてまず思ったのは、文章が淡々としているなあということでした。

 すごくざっくり言うと、文体に目立った特徴がない感じ。

 特徴がないというとなんかディスっているみたいですが、別にいいとか悪いとか言うつもりはなくて、ただ純粋にそういう印象を抱いたというだけです。

 まあ、段落の末尾にところどころ類推のような表現が取り込まれている感じは、多少ユニークだとは思いましたが、それでも全体として淡々としているなあと思いました。

 といっても、読みさしのままで翌る日にまた図書館に行ったら文藝春秋が次の新刊に変わっていて(!)、続きを読むことが不可能になったため、私は全体の6分の1程度しか読むことができず、なのであまり大きな声では論評できないのですが。。。

 

 そしてつい数日前に発売された群像に掲載されている、セクシー女優紗倉まな氏の『春、死なん』も読みました。

 こちらは半分くらい読んで飽きて読むのをやめてしまったのですが。。。

 この小説は、孤独感を抱きながら生活している老人の話です。

 読んで率直に思ったのは、文章が本格的だなあということでした。

 文学っぽい風景の描写や心情の気の利いたレトリカルな描写が結構あって、驚きました。

 やはり紗倉まな氏が書いているという先入観があったので。

 ところどころ、アマチュア小説家っぽい若干の拙さもあった気がします(恐縮な物言いをしてしまっていますが、私自身読みながら、なんともいえない同情めいた恥ずかしさを抱きました)。

 ただ自分が途中で読むのに飽きちゃったのは、なんとなく要所の文章表現がエンタメっぽいノリに引っ張られている気配があって(微妙なところですが)、それをつまらなく感じてしまったから、という具合です。

 半分しか読んでいないので、骨となるストーリー展開についてはなんとも言えないのですが、まあ、前半部分を読んでいて自分はそう感じました。

 しかしひとつ言うと、拙さのある小説作品や映像作品を鑑賞すること自体は、私はまったく嫌ではなくて、だから知人が小説を書いたと言えば進んで読むし、むしろ何がよくないとか分析するのが楽しくて好きなくらいなのですが、まあ知人とかじゃなければ途中で飽きちゃいますね、特に小説の場合は。

 (ていうかそもそも「小説」って、普通に読むの疲れるしめんどいよね。)

 

 とにかく、どちらの作品もそれぞれ面白さがありました(それはそう)。

 

 最近ずっと短編ばかり読んでいたのですが、当面は、かれこれ一年間くらい買って放置していたフィッツジェラルド『グレート・ギャヅビー』、カミュ『異邦人』、椎名麟三『永遠なる序章』あたりの長編を読もうかと思います。

 

2018年 09 月号 [雑誌] (文藝春秋)

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20.人はなぜ自己表現をしたがるのか

 と突然大仰に題してみたものの、こういうことに関連した哲学や心理学などの学問的素養があるわけでもないし、この場でがっつりまともな文章が書ける自信は全くない。

 寂しさを埋めるため、というナイーブな回答で一蹴するのはとりあえず控えておいて、まあ、たまにはこういうテーマでとりとめのない随筆文を書いてみようと思う。

 

 本当はこういう話題に対する自分なりの回答としては、まとまった文量の小説をこしらえるべきであって(この「べき」はもちろん私によって私に課せられた観念的な義務にすぎない)、不思議に湧いてくる深夜帯特有の気概に任せてブログの一記事という格好で書き殴るのは、私の思索が文章として立ち上がる際に、とりわけ文学的な意味合いにおいて、「出来損ない」になってしまうことをすでに決定づけてしまうのだけれど、とは言えちゃんとした形式で記述するにはそれなりの時間やら気力やら意志やらが必要なので、ひとまずこういった形で手軽に記してみようと思った次第である。

 こういった注釈を長々と垂れているといつまで経っても本題に入れないし、前準備をいろいろやっているうちに疲れ、思慮していたことが丸ごとどうでもよくなってしまう精神状態に陥ってしまうと元も子もないため、瑣末なことには気を配らず、なるべく大振りな筆運びで素早く書き終えて就寝してしまうのがよかろう。

 

 少し引いた視点から述べると、情報革命以前の人々の自己表現の手段とは、周囲の人物とコミュニケーションを取るか、日記等の文章をしたためるかの2つに大別できそうである。

 もちろん絵画や音楽や演劇のような芸術、あるいは専門的な生業などそういったことも自己表現につながるものであるが、ひとまずここで述べる自己表現は言語的伝達手段のことに限定していて、同時にそれはほとんど全ての人々が担い手側になることのできた自己表現手段のことである。

 そしてインターネットの発達により電子的に文章の読み書き・共有が可能になったことによって、掲示板とかブログとか呼ばれるものが人々のあらたな交流、発信の場として発達した。

 ブログは初めは、テレビなどのマスメディア同様、主に「有名人」によって運営される自己表現の手段であったが、次第に一般人まで敷居が下がり、それはアナログな既存の交友関係にとどまらず、顔も実名も知らない他者との匿名的な交流を容易にした。

 そして「文字を書いたり画像を載せたりして自己を発信する」ブログの機能がその簡略性と流動性を高めていった結果、Twitterのようなソーシャルネットワークが発展し、次第に人々は現実と切り離された「デジタル世界のアバターとしての自分」を所有するというよりも、現実空間と仮想空間の自己が(仮想空間の中に自己が複数存在することもしばしばある)別々に存在しながら不思議に融和して、全てを覆うようなぼんやりとした大きなイメージの自分が横たわっているという、奇妙な状態を経験する。

 

 とずいぶん適当に「自己表現史」を述べ立てようと試みたが、やはりこういう文章を書くのはよろしくない。

 なんか変に教科書臭く、説教臭く、胡散臭くなってしまった。

 自分で読み返してみてもなんだか気味が悪い。

 というわけで上記の文章はもうほとんど無価値だ。

 私が書きたかったことはそういうことではなくて、とか言いつつでは何が書きたかったのかと改めて考え直すと、すでに実体が雲のように消えているのであるが、というか初めから確固としたものなどなかったのだろうが、なんか無理やり1つ言葉にしようとすると、例えばそれは、人が自己表現の手段を使い分けるとき、それぞれで解消したい心のわだかまりのようなものの種類が違っていて、かつ「どういうわだかまりにどの手段をどういう具合で適応すればよいのか」について、人々は試行錯誤を繰り返している、ということである。

 人々、などと大きく括るのは傲岸不遜で、正確には「私」という主語にするべきかもしれないが、まあ多分みんなそうだろうという楽観的な考えがあって、しかしそうするとまた、いやだから「みんな」って誰やねんというさらなるツッコミが自分の内側に生じるのであるが、いやいや言葉の定義に無駄に神経質すぎるよもっと感覚的に軽やかに進めよ、いやいやいやそれは逃げだよ、とかわけのわからぬ反駁合戦が開始され、そんなことを全て書き尽くそうと頑張り始めるとまあそれはそれで面白いけれど、基本的に見苦しさが増長する一方なので打ちきろう。

 自己表現の手段の使い分けとは、私の場合は手軽な順に、普段の対人での会話(これは場合によっては非常に手重になることもある)、ツイッター、ブログ、小説くらいだろうか。

 

 恐ろしく唐突であるが、このあたりで本記事を終えようと思う。

 起承転結の杜撰な文章で脈絡がなく、かつ題名に対する回答も文章中に見当たらないのであるが、思ったよりこのお題で書くことが大変で、疲れてしまった。

 初めに「早く書き終えて就寝するのがよかろう」みたいなことを書いてしまい、なんとなく一回書いたことを消すのも嫌だから、この文言を守るには本記事を書き終えるまで眠ることができないのであるが、もう私は早く電気を消してカーテンの隙間を青白く縁取る採光を眺めながら目を瞑りたいので、強行的に終えてしまうことにする。

 そうするとこの記事はある種の敗北経験であるが、まあこんなこともあったということで書き残しておいて、それがいつかの勝利につながるであろう。

 勝利?何に?

 

 とにかく文學界新人賞で最終候補に残ればあらゆる全てが解決する、霧が晴れる、それ以外は全て無意味です、虚構です。

 おっと、こんな酔狂じみた落書きに走り始めたらいよいよだな。

 私はもう一刻も早く寝たほうがいい。

 

 じゃあさようなら、今日。

 

 

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19.私の過去作品の書き出しの変遷

 「ひらがな推し」という私が毎週観ているアイドル番組で、小説の書き出し女王選手権みたいなのをやっていました。

 というわけで今回は、私が過去に書いた小説のうちかいつまんで、冒頭の書き出しの変遷(上達過程?)をまとめてみます。

 わお!これは面白そうだ!

 それぞれ原稿用紙一枚分くらい引用していきます。

 

 まず初めは、大学一年生くらいのときに書いたやつ。

  山内良太は3人の中で一番早く到着していた。場所は都内にある日本料理店、一番奥の三人用丸テーブル。今夜この場で行われる会談の重要性を考えると、自然に背筋が伸びてしまう。山内は大手自動車メーカーA社の営業副部長である。今回行われる会談に来る残りの二人はいずれもライバル社であるB社とC社の営業部長であり、その内容は、国が始める新しい事業に提供する自動車台数の3社割合に関する協定の最終決定である。これについての会談は今まで何度か開かれていて、全て営業部長が出席していたのだが最後の会談の日に限ってその部長が体調を崩し、副部長である山内が出席しなければならなくなった。はじめは不安だったが、最終決定の協定は今までの会談で決まったことを確認してイエスと言うだけの形式的なものだから大丈夫だと部長に念押しされ、代理として参加することが決定した。

 大学四年生くらいまではほとんど読書をした記憶がなく、それまで多少読んでいた星新一東野圭吾の短編の影響を受けた文体でした。たぶん初めてまとまった量を書いた小説で、原稿用紙10枚くらいでした。

  

 

 次に引用するのは、それから3年くらい経って、大学4年生の秋ごろに書いたもので、初めてまともな長さ(80枚程度)書いた小説です。

 しかし彼にとってそれは全く信じ難いことだったのである。なぜなら液晶画面に表示されたその女の子はニュースキャスターが言うように白河女学院の生徒だったから、彼の通う高校のすぐ近所にある女子高の生徒だったから、という意味だけでなく、彼女は間違いなく彼が長い間想い焦がれたそしてその結果現在極めて親密な関係にある人物その人に他ならなかったからだ。だからそのとき一緒にテレビ画面を見ていた母親が「何でこんなに若くて可愛い子が死ななきゃいけないの」と呟いたとき、彼は何も言葉を返すことができなかった。彼にもその理由は皆目見当がつかなかったのである。

 「しかし」で始めているのは何か尖ってますね笑

 推理小説っぽい出だしだ。

 この小説はだいぶ主義主張を書きまくったものになっていて、小説としての体裁はとても褒められたものではありませんが、まあ個人的には思い出深い作品。

 これ書いた後くらいから純文学を読むようになりました。

 

 次は修士1年の春に書いたもので、これも80枚くらい。

 今しがたある惑星、我々の銀河で言うところのガーネットスターほどはある巨大な惑星が、地球から十三ギガパーセク離れた可視宇宙の縁辺で超新星爆発を起こした。それは超新星爆発の中でも比較的大規模で、我々の観測可能な宇宙に存在する約八百億の銀河の一つをほとんど無に帰してしまった。しかしその銀河の終わりを大多数の人類が知る由もない所以は、それが広大過ぎる宇宙において取り立てて異常な事態ではない上に、我々の日常に与える影響が限りなく零に等しいからである。

 我々の生活が曲がりなりにも成立していることは全く信じがたい奇跡であるが、人智を超越した神の力がその奇跡を現実足らしめていると考えるのは、いささか早計であろう。むしろ我々一人一人の注意深く慎重な生き方の総体こそがそれを現実足らしめているという方が、よほど説得力がある。 

  今から振り返ると、これもだいぶ尖った書き出しだなあ。。。

 書き出しだとあまりわからないですが、この作品自体は大江の文体の影響を受けています。

 まあこれも小説としては拙い。

 

 次は25枚程度の短編。

 修士1年の夏くらいに書いたもの。

 明け方の日差しにうららかなる心持ちで、飽きもせず散歩のできるのは、はたして老衰の証であろうか。

 神楽坂から広小路に出て、牛込濠、新見附濠、四谷濠と南下する。岸に沿った植栽には等間隔で、「立入禁ず」の札が立っている。わたくしは、水面を挟んだ向かいにそびえる黒松を見やった。

 石垣の高きにぽつぽつと生える黒松にどこか違和感を覚えるのは、周囲の景況が変わったせいであろう。二百余年に渡る幕府の栄華の名残が、雲の懸かるほど天近くまでそびえているようだった。

 明治政府は濠の両脇に、桜並木を植樹した。あと幾ばく年もすればここは、花見に興ずる人々や、遠方より至る旅客で賑わうかと思われる。両岸より垂れた満開の桜に、皆が感嘆の声を上げ、黒松は後ろへと押しやられる。濠の内と外の区別はなくなり、江戸の記憶は薄れてゆくのみだ。

 これは、永井荷風の濹東綺譚の文体を真似て書いたものです。

 幕末の話。

 この時期は友人らと文学ゼミを開いて、文体模写とかやっていた思い出が。。。(懐かしい)

 余談ですがこの作品は織田作之助青春賞というので2次選考まで行きました。(特にすごくはないです)

 

 これも上のと同じくらいの時期に書いたもの。

 これは35枚くらい。

 アラームは鳴っていなかった。窓の外は白み、蝉の鳴き声が微かに聞こえた。

 枕元のスマートフォンを手に取ると、五時二十七分、アラームをセットした時刻の三分前。目蓋が軽くて、いやにすっきり頭が冴えている。アラームが鳴る前に目覚めるなんて、滅多にないことだった。僕は目覚ましのアプリを閉じ、ベッドから体を起こした。

 ベランダを開けると、スッと涼しい風が滑り込んできて、蝉の鳴き声が一段大きさを増す。雀が鳴くのも聞こえる。深呼吸した。七階の部屋だから、遠くまでよく見渡せる。淡いブルーに沈んだ早朝の街が綺麗だった。

 起床後にベランダから眺める風景は、日毎にその色味が変化する。つい最近までは、東の空に太陽が顔を出していて建物の屋根や窓ガラスを煌々と照りつけていた。薄く長い影ができて、街が立体的に浮き上がって見えた。日の出の時刻は日に日に遅くなっていく。

 僕は台所に向かい、水道をひねった。手でお椀を作り顔面に何度か擦り付ける。調理器具を収納する扉に掛けてあるタオルで顔を拭く。

 毎日河川敷を走っている男の話。

 当時はうまく書けたなあとか思っていたんですけど、今見ると拙いですね、やはり。

 自分が成長したということだな、よしよし。

 アハハハ。。。

 

 そして次が、個人的にターニングポイントになった作品です。

 修士1年の秋に書いたやつ。

 80枚くらいの文量。

  墓参りから帰宅すると、思いの外身体はくたくただった。暑さのせいもあろうが、会ったこともない死者のことを想像したり気遣かったりするのに、彼はずいぶん慣れない神経を使った。父方の祖父母は、彼の生まれるずっと前に交通事故で亡くなっていた。

 父は扇風機のスイッチを入れてから、戸棚にロウソクと線香を仕舞うなり、台所へ向かいダンボールを漁り始めた。彼はソファに置きっぱなしだった本を手に取り、読みかけのページを開いた。網戸の外は薄暗く、隣家の壁に張り付いた葉っぱが震えるように揺れていた。

 ページをめくろうと指を掛けたとき、ぬっと父の顔が現れた。

〈桃剥いたけど〉〈食べるか?〉

 テーブルの真ん中には白い皿があって、カットされた桃がうず高く盛られている。父はべっとり汁のついた指をねぶった。彼はこくりと頷き、本をソファに置いて立ち上がった。

 近くで見ると果肉の瑞々しさが、まばゆいほどぎらぎらと部屋の明かりを照り返していた。ひと切れつまみ上げると、意外な温かさが指先に伝わった。口に入れた瞬間、果汁がじゅっと染みて舌の奥がかすかに痺れ、唾液が溢れた。あごの力をほとんど使うことなく、桃は口内で崩れて溶けた。

 聾者の小学生男子が主人公の話です。

 主人公をかたくなに「彼」で呼ぶのは、中上健次の『岬』を真似ました。

 この作品が文學界新人賞の4次選考まで残りました。

 (この年の4次選考に残ったのは、だいたい20/2500くらいだったので、倍率100倍以上!)

 このとき初めて、多少なりともの結果が出たので、割と自信がつきました。

 これがあったから今も小説を書けているといっても過言ではない! などという世俗的な発言はしたくありませんが、若干そういう感じあります。若干。

 実際この辺りから文章が本格的(本格的とは?)になっている感じがありますね。

岬 (文春文庫 な 4-1)

岬 (文春文庫 な 4-1)

 

 

 で次が、今まで書いたなかでは最長の長さ、150枚くらい。

 修士1年の冬に書いたもの。

 フックが初めて飛行機を見たのは四歳のころだった。それは晩年、一日の大半の時間を病床での回顧に費やしていたフックが思い出すことのできた最古の記憶でもあった。千切れた雲を退けるように膨張した満月に、くっきりと機影が刻印されていた。当時のフックは飛行機のことを、人や貨物をある場所から別のある場所へ運ぶための乗り物などという風には認識していなかった。村で見かける数種類の大柄な鳥達の仲間で、それは当然自らの意志で羽ばたいているものだと思い込んでいた。月光を浴びながら悠然と夜空を直進する機体の姿は、敏感になっていた嗅覚の実感も避け難く呼び覚ます。腐敗した食物を踏み潰したような匂いが、隣に佇む大男の足元から漂っていた。指股や爪の隙間に、黒々とした汚れが影の如くこびりついていた。汗と土の混じったじっとりとした臭気は土中の細かい生物達の死臭にも思われ、実際子供達がヴァンおじさんの足裏を見せてとせがむ度に、そこには羽虫の死骸やミミズの紅色の切れ端が潰れてべったり付着していた。 

  ベトナムに生まれた男の一生を書いた小説です。

 完全にマルケスの『百年の孤独』の影響を受けて書いたものです。

 硬いなあ。アハハハ。 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

 

 次の小説は、修士1年の終わりごろ、今年の3月に書いたものです。

 80枚くらい。

 夢から覚めると、胸の奥でしゅんとした寂しさが石ころのようにわだかまった。戸外でカラスの鳴くのが聞こえ、ベランダのレースカーテンに青白い陰影が流れていた。私は剥がれている布団を引き寄せて、寒くもないのに強く体を縮こませた。

 夢は、埋もれていた記憶の再現だった。三年前、初めてステージに立った日のこと。眩しすぎる照明。サイリウムのうねり。音響機材の脇に待機していたときの、他のメンバーたちの強張った表情。なぜだか三年前に見た光景だと気づくことはなく、私は当時と寸分変わらない心持ちで、初々しさの断片をなぞった。

 その日は、同じレーベルに所属するアイドルグループが一堂に会した合同ライブが催される日で、私たち「ラビッツ」のお披露目ライブも目玉企画の一つだった。

 パフォーマンスを終えた先輩グループがそのままステージ上でトークタイムに入ると、スタッフさんが硬直した肩を叩いて、私たちをステージ袖の階段まで連れていった。二、三人のメイクさんが最終チェックを行い、私たちの前髪や衣装のずれを手早く整える。うさみみのカチューシャをつけたメンバーたちは、興奮と怯えの拮抗した不安定な視線を交わし合う。

 割と人気めな地下アイドルが主人公の話です。

 なんか私、これまで書いた小説の半分くらいは女性が主人公なんですけど、失敗することが多いです。。。

 最初の一段落は今読んでも結構よさげかなあ。

 

 

 とこれくらいで終わりにします。

 4月以降も書いているんですが(そしてつい先ほど短編小説を2つほど応募してきたところなのですが)、まだ新人賞に応募中のものとかなのでネットには引用しないほうがよさそう。

 

 以上です。

18.『セヴンティーン』大江健三郎ー勃起させるもの

 図書館で『大江健三郎自選短篇』を借りて、『セヴンティーン』を読みました。

 

大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)

大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)

 

 

 大江の本でちゃんと全部読んでいるのは『われらの時代』と『万延元年のフットボール』くらいなのですが、本作を読んだときに、『われらの時代』以上に若くて荒い表現が連発されているので、主人公も十七歳ですし、てっきりこれは『われらの時代』よりも前に書かれた作品かと思っていましたが、少なくとも発表されたのは『われらの時代』より2年あとのようです。

 ちなみに『われらの時代』の主人公は大学生で、執筆時の大江の年齢もちょうどそれくらいでしたので、本作は大江が主人公を自分よりも10歳弱年下に設定して若い頃を思い出しながら書いたのか、あるいは若い頃にすでに書いてしまっていたものを発表したということになるでしょう。

 個人的には後者じゃないかなあと思います、なんとなく。

 さて、大江と言えば(特に若い頃に書いた作品においては)勃起という言葉に対して並々ならぬ思い入れがあるというイメージなのですが、本作では冒頭から、十七歳の少年が「勃起」について語り始めます。

 おれはいつでも勃起しているみたいだ。勃起は好きだ。体じゅうに力が湧いてくるような気持ちだから好きなのだ。それに勃起した性器を見るのも好きだ。おれはもういちど坐りこんで体のあちらこちらの隅に石鹸をぬりたくってから自涜した。十七歳になってはじめての自涜だ。(『大江健三郎自選短篇』所収『セヴンティーン』p213) 

 ですがこのあとで、主人公は「自涜する自分の滑稽さ」みたいなものについての煩悶を結構長々と述懐します。

 そういうのってテーマとしては、なんというか「あるある」な感があるのですが、大江の豪腕で奔放な筆力がそれをただの「あるある」では終わらせず、読者をもっとごつごつした岩間の隙間の深いところまで引きずり込みます。

 『われらの時代』では、高校生が天皇を爆殺する計画を立てて「これはおれを勃起させるぞ!」と言うのですが、本作でも「何が自分を勃起させるのか」ということがひとつ議題に上がっているような気がしました。

 まあ、「何のためにあなたは生きているんですか?」と質問されたときに「勃起するためです」と答えるのは私にとってもまぎれもない正解だとしっくりくるのですが、では何が自分を勃起させるのか、そのために自分は何を行うのか、そういうのに思索を巡らし始めると、なかなか収拾がつきませんね。。。

 で、本作では「勃起させるもの」として、主人公が「右」の組織に所属し勇躍していく仮定がそれに対応している気がします。

 以下は右翼団体の頭領から金を渡されて風俗を体験したシーンですが、このあたりはバキバキに本作らしさ、初期大江作品らしさ(?)に満ちた文章になっています。

おれは激烈なオルガスムの快感におそわれ、また暗黒の空にうかぶ黄金の人間を見た、ああ、おお、天皇陛下! 燦然たる太陽の天皇陛下、ああ、おお、おお! やがてヒステリー質の視覚異常から回復したおれの眼は、娘の頬に涙のようにおれの精液がとび散って光るのを見た、おれは自涜後の失望感どころか昂然とした喜びにひたり、再び皇道派の制服を着るまで、このどれの娘に一言も話しかけなかった。それは正しい態度だった。この夜のおれの得た教訓は三つだ、《右》少年おれが完全に他人どもの眼を克服したこと、《右》少年おれが弱い他人どもにたいしていかなる残虐の権利をも持つこと、そして《右》少年おれが天皇陛下の御子であることだ。(p275)

 わざわざ言うのもあれですが、ビックリマークとか「ああ、おお」とか同語反復とかを使うエゴイズムな感じ、それでいて硬質な語彙で構築された豪奢な文章と調和している感じが、まあ、初期大江作品の真骨頂ですよね(たぶん)。

 

 とだいたいそういう感じで。

 大江は個人的にも特に思い入れのある作家で、というのも『われらの時代』が自分が文学に関心を持つきっかけになった作品のひとつなので、まあ、今後もちょくちょく何かの折に読んでいくだろうと思います。

 では。

17.本ブログの設立目的と今後の方針について

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 こんにちは、誰か。

 

 このブログの設立目的は主に、以下の3つでした。

 1.筆力を慣らしておく。

 2.好きなことについて考えたことを文章化して残しておきたい。

 3.あわよくばブログでお金を稼ぎたい。

 それで約2ヶ月間で15記事ほど、主に読んだ本の感想、たまにアイドルの話をしていたわけなのですが、とりあえず3番目の目的を達成しようと思ったら、わりと大変そうだということがわかりました。

 ある程度のお金を稼ごうと思うと、さしあたり毎日更新しなきゃいけないとか、ちょっと自分にはしんどそうなのです。

 なので収益化はまあ諦めるとして。

 そうすると、今まで文学とかアイドルとかテーマが混在しているのPV数伸びにくいだろうなとか若干配慮していたんですが、まあそういうことを考える必要もなくなりました。

 なので今後は、今までよりも奔放な感じでやっていこうと思います。

 外部の視線への意識が弱まって、まあ雑記的な色が強くなる感じです。

 とはいっても本を読んだときはその感想を簡単にでもここに書き残しておくというのは変わりませんが。

 あとこのブログと紐付いているTwitterアカウントは、今まではブログの更新をシェアするのがほとんどだったのですが、今後は通常の「つぶやき」も増えるかと思います。

 主にアイドルか文学にかんするつぶやきになるかと思いますが。

 あと話が前後するんですが、目的の2番目について、自分が普段好きで(?)考えていることは、文学、アイドルと、あとは今大学院でやっている研究ないしそれに関連した数理・物理的な話題で、そういう本も読んだりしているので、もしかすると、今後突然そういった話をし始めるかもしれません。

 再び前後するんですが目的の1番目については、一応自分は向こう1、2年以内に5大文芸誌の新人賞を受賞してプロデビューすることを目標にしていて、まあそのために多少慣らしておこうというぐらいのものです。

 実際は小説を書くときに使う語彙とか表現の流れ方みたいなのは、まあ小説ごとの特徴にもよるものの、ブログで本の感想やエッセイを書くときのそれとは違う部分があるので、本当に多少は、という感じです。

 

 ええと、なんかそういう感じで、とにかく今後はブログもTwitterの方も、外部の仮想的な視線をあまり気にせずに、ごちゃっとやって行こうかと思います。

16.『優しいサヨクのための嬉遊曲』島田雅彦ー愉快な文章

 現芥川賞選考委員、島田雅彦氏のデビュー作です(氏は本作を含め六度芥川賞候補になり落選するという最多記録タイを保持しています)。

  内容としては、政治運動と恋愛に傾倒する学生の話、という感じです。

 会話文やささいな描写に学生たちの独特の感性の表出があって、面白い、愉快な文章でありながら、情景描写や比喩表現においてオーソドックスな意味での筆力が高いので、全体として上質な感じになっているな、と思いました。

 こういう漠とした表現だと当てはまる小説が他にもたくさんありそうに思えますが、そういうわけではありません。

 以下は「無理」という名前の学生が男娼のバイトを始めた場面です。

「君はなかなかいい体をしているな」

「そうですか。力はあるんですよ」

 浴槽には湯が注ぎはじめ、シャワーが待ってましたとばかり飛び出る。この時、無理の動きも相手の動きも人形のそれに変わった。

 背中を流す動作はアンダンテのメトロノームの動きだった。客の背中は広く、平坦だった。畑にして茄子でも植えればいいと無理は思った。集めの湯が顔にあたっているうちに自分は何をしているのかよくわからなくなった。ただ動いていると感じた。それは非常に都合のいいことだった。

「口と肛門どっちがいい」と客がたずねた。彼は石けんを棒にすり込んでいた。

「僕はホラなら多少吹けますけどね。尺八は吹けないんですよ」

島田雅彦芥川賞落選作全集上巻収録『優しいサヨクのための嬉遊曲』p87) 

 そういえば、私は本作を『島田雅彦芥川賞落選作全集』という書籍で読んだのですが、まえがきで島田氏がなんかいろいろ書いていて、三島由紀夫の話とか個人的に面白かったです。

(前略)文学のみならず、日本社会に実に多大な贈与をした存在として、三島はおおいに尊敬されるべきだ。自分の世界に引きこもり、他者と交わろうとしない大江健三郎村上春樹と較べても、その貢献度は計り知れなかった。(p8)

 島田氏といえば、実際の年齢よりも言動が若いというイメージがありますが、本作は氏の創作活動、というか生き方、というかそういう何かのまあ、源泉の一端に触れられる作品、かもしれません。