文学の凝縮、アイドルの拡散

フリーターの読書ブログ

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106.小説の書きかたについて

過去にこのブログに書いた読書感想や雑記を見返すとふしぶしで気持ち悪い文章だなあと感じてしまい、それは自分のなかに変化があったことを裏づけると思うのだが、時間をへて物事の考えかたが変わったというよりは言葉や文章に対する感覚が変化したんだと言ったほうが自分としてはしっくりくる。

それはさておき、さいきん「じぶんが小説をどう書くか」みたいな考えをすることが増え、そういうことを考える助けになるような書籍も少し読み、これからもそういうのは読むつもりなのだが、以前にくらべればかくじつに考えが前進していて、それが小説に向き合うときの緊張をやわらかくしてくれていると感じる、と書いてみると考えを増やしたのに力がぬけるというのは逆説的だが、じっさい筆の進みはいいし30枚くらい書いた現段階でわりといいものを書いているんじゃないかと思っている(たぶんこれは150枚くらいの小説になる)。

万事うまくいっているというわけではなく、毎日コンスタントに2000字書いていて、さいきんのじぶんが自由にできる時間からすればこの倍は書けるはずなのだし昨日今日と手つかずだったりもして、それでとつぜん思い立ってここに書いていたりもするのだが、全体として悪くない。

小説の書きかたについてさいきんの発見というか信じるようになったことがあって、ひとつには「書くまえにエンディングを決めなくてよい/決めないほうがよい」ということで、つまりじぶんの書く小説の自立した動き(「小説の運動性」という表現をよく聞く)にまかせるということだ。

今書いているのもラストシーンをぜんぜん考えていないし、逆に言えば考えなくていいような種類の小説を書いているということにもなる。

とくに「自由さ」について考えていて、これは新しさと言い換えてもいいのだが、広い意味でパターン化されているものや読者がある意味で安心するものから抜けだしていかなくてはならなくて、本当の意味での面白さはそこにしか残されていないのかもしれない。

自由さが大事だなんて当たりまえすぎるフレーズだが、さいきん不自由なものが指す領域がじぶんのなかで広がっていて、具体的に言うと現代短歌のなかにパターン化された歌がたくさんあると感じるようになってきたり、三島由紀夫志賀直哉の小説のつまらない部分に目を向けられるようになった。

けっきょく「じぶんが小説をどう書くか」という問いのめぼしい結論にはまだ達していないのだが、どんな現実や空想も小説に書きだせたらいいなという願望がたぶん以前からあって、それで今は実生活のいちばん手近な空間や人々にもとづいた小説を書いている。

今まで述べた「考えかた」とはべつの由来、この一年短歌や歌詞を書いてきたなかで言葉に対する感覚がやしなわれたというのもあって、それはある流れに配置されたある言葉の「純粋さ」について敏感になったというようなことなのだが、今わりと書けている実感にはそういうのも手伝っている。

話が前後するかもしれないが、「自由さ」や「新しさ」にたどりつくためにはじぶん自身の純粋な姿を見いだすことが必要なのだと思う。

生きているだけで勝手にすりこまれていく価値観はたくさんあって、それは思想みたいな大きな対象だけではなく、ある一瞬生まれてすぐに消える発想だったり無意識だと思いこんでいる流れだったりいろんなところに隠れていて、そういうのを地道に取り除いていった先に無垢なじぶんなのか世界なのかが浮かびあがってきて、それはその人に固有の高い純度を保ったなにかだから、そこから自由で新しいものが生まれてくるんじゃないかと思う。

今じぶんはその過程にいて、今考えられるのはこれくらいのことなのだが、とにかく書きながら考えて考えながら書いて考えるために本も読んだりして、そういうことを続けていってまた考えかたが広がれば楽しいし、いい小説が書ければうれしい。

105.しばし休止しようかな

このブログはしばらく更新されていなかったが、本を読んでいなかったわけではなく、むしろここ一、二ヵ月はいままでで一番といっていいくらい読書にふけっていて、といってもそもそも継続的に本を読めるタチじゃないから、いまもせいぜい毎日五十ページ程度のものなんだけど、それでも自分としては文章の摂取の心地よさみたいなものを、さいきんは新鮮な思いで感じている。

直近ではこういうのを読んだ。

古井由吉「蜩の声」

カフカ「変身」

今村夏子「ピクニック」

鹿島田真希「六〇〇〇度の愛」

松浦理英子「風鈴」

保坂直志「プレーンソング」

いちいち感想を書かなくなったのは、単純に作業が面倒になってきたからで、逆に二年弱もよく続いたなと思うが、とにかくそういうことをしなくても以前にくらべ個別の作品や文章を眺める目がずいぶんやしなわれたような気がしていて、もういい加減いい小説が書けるんじゃないかという予感があって、いい小説を書くこと、それで秋ごろの新人賞で結果を出すことにいまはつよく気がむいている。

とくにこの一年くらいは、小説以外にもいくつかの取り組みを始めたり、生活にもけっこうな変化があったりしたんだけど、まあそれはそれとして、とにかく今はいい小説を書いちゃおうかなという気でいる。

104.上田岳弘『太陽』

人、土地、時間がめまぐるしく入れ替わり立ち替わりしながら、時間・空間的に大きなスケールで描いています。

人物同士の巡り合わせや節々のナレーションなどの妙にわざとらしい感じも、結局取り合わせの喜劇的なスパイスや切実な抒情表現の下支えを受けて、作品全体としていいバランスで成立しています。

 

太陽・惑星

太陽・惑星

  • 作者:上田 岳弘
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/11/27
  • メディア: 単行本
 

 

103.長嶋有『サイドカーに犬』

吉村萬壱『クチュクチュバーン』と2001年文學界新人賞を同時受賞した作品ですが、こちらは対局的に、平凡な世界の日常的な風景が描かれます。

とはいえ何気ない描写のなかに、スプーンひとさじの旨味が詰まっていて、読み応えがあします。

冒頭引用したかったのだけど、本は図書館に返却済みで、ネット上にも見つからなかった。。。

 

著者の第二作かつ芥川賞受賞作『猛スピードで母は』に収録されています。

猛スピードで母は (文春文庫)

猛スピードで母は (文春文庫)

 

 

102.吉村萬壱『クチュクチュバーン』

 

クチュクチュバーン

クチュクチュバーン

 

久しぶりに「これ先に書きたかったあ」と思わされました。

吉村萬壱のデビュー作です。

細部のナンセンスな描写がちゃんと面白い。

 一カ所に留まっていても仕方がない、とは誰もが思い、人々は移動をやめなかった。混 乱は続いていたが、何が起こりつつあるのかまったく分からないという人間は少なくなっ てきていた。

 それでもこんな質問をする子どもがいる。

「母ちゃん、怖くないか?」

 子どもにそう言われた母親は、脇腹から余分な腕(脚かもしれない)を六本生やしてい る。まだ充分に動かないその余分な腕は、生まれたてらしい桜色をしていて、薄皮の下に 真新しい血管が透けて見える。摘むと大福餅のような感触だ。これのためにセーターの 脇を切り裂いてあるが、十一月だというのに寒くはなかった。裸でも過ごせる高い気温 が、もう丸一年続いているのだ。空の色は相変わらず安定しない。突然真っ黒に暗転する かと思えば、オーロラのような七色の光の帯が猛スピードで天空を走り抜けたり、眩しい 閃光が空一面を照らしたりする。鳥はほとんど見えなくなったが、たまに鳥よりもっと ずっと大きなモノが飛んで地上に大きな影を落としていた。(冒頭を抜粋)

 

101.千葉雅也『デッドライン』

前回の更新から三か月以上空いてしまいました。

実際その間、これといって本やら映画やらに触れていなかったような気がします。

小説はひとつ書きました。

これからもじゃんじゃん書いていく所存です。

 

デッドライン

デッドライン

 

 

どうでもいいですが、単行本ではなく新潮で読みました。

あらためて、私は大学生が主人公の話が好きなのだなあ、と感じました。

場面は基本、ゲイプレイと哲学ゼミの二軸で構成されていて、その取り合わせ自体もよいですし、ところどころの描写もよかったです。

 暗闇に目が慣れてくる。ほとんど真っ暗な通路の奥へと歩いていく。その途中の左右には、やはりほとんど真っ暗な部屋、というか窪みのような、トイレの個室ほどの空間がいくつかある――蟻の巣の構造みたいに。目が慣れてくると、パンツ一枚の男たちの顔がぼんやりとわかってくる。比較的筋肉質の若い男ばかりだ。一人の男が暗闇の奥へ消えていくと、別の男がその後に付いていく。さらに別の男がその後から付いていく。男たちは連動する。車間距離を測りながら走る車のように、あるいは、群れなして回遊する魚のように。(冒頭)

 

100.大島渚『戦場のメリークリスマス』

 

戦場のメリークリスマス [DVD]

戦場のメリークリスマス [DVD]

 

1983年公開のいわずとしれた有名作品。

 

よいカットが連続している。よいカットというのは絵画性、詩性を有する、それ自体鑑賞価値を認められるようなカットのことで、小説でいえば文体の力に通ずるような何かのことである。たとえばなにげない「つなぎ」のシーンであっても少し丁寧に長回しすることで、見応えのある数秒、数十秒がうまれる。

 

実生活ではたびたびつたなく滑稽に思えてしまう「日本語訛りの英語」が、この映画のなかでは不思議と自立し、真似したくなるほどの中毒性がある。