文学の凝縮、アイドルの拡散

小説の書きかたについて

過去にこのブログに書いた読書感想や雑記を見返すとふしぶしで気持ち悪い文章だなあと感じてしまい、それは自分のなかに変化があったことを裏づけると思うのだが、時間をへて物事の考えかたが変わったというよりは言葉や文章に対する感覚が変化したんだと言ったほうが自分としてはしっくりくる。

それはさておき、さいきん「じぶんが小説をどう書くか」みたいな考えをすることが増え、そういうことを考える助けになるような書籍も少し読み、これからもそういうのは読むつもりなのだが、以前にくらべればかくじつに考えが前進していて、それが小説に向き合うときの緊張をやわらかくしてくれていると感じる、と書いてみると考えを増やしたのに力がぬけるというのは逆説的だが、じっさい筆の進みはいいし30枚くらい書いた現段階でわりといいものを書いているんじゃないかと思っている(たぶんこれは150枚くらいの小説になる)。

万事うまくいっているというわけではなく、毎日コンスタントに2000字書いていて、さいきんのじぶんが自由にできる時間からすればこの倍は書けるはずなのだし昨日今日と手つかずだったりもして、それでとつぜん思い立ってここに書いていたりもするのだが、全体として悪くない。

小説の書きかたについてさいきんの発見というか信じるようになったことがあって、ひとつには「書くまえにエンディングを決めなくてよい/決めないほうがよい」ということで、つまりじぶんの書く小説の自立した動き(「小説の運動性」という表現をよく聞く)にまかせるということだ。

今書いているのもラストシーンをぜんぜん考えていないし、逆に言えば考えなくていいような種類の小説を書いているということにもなる。

とくに「自由さ」について考えていて、これは新しさと言い換えてもいいのだが、広い意味でパターン化されているものや読者がある意味で安心するものから抜けだしていかなくてはならなくて、本当の意味での面白さはそこにしか残されていないのかもしれない。

自由さが大事だなんて当たりまえすぎるフレーズだが、さいきん不自由なものが指す領域がじぶんのなかで広がっていて、具体的に言うと現代短歌のなかにパターン化された歌がたくさんあると感じるようになってきたり、三島由紀夫志賀直哉の小説のつまらない部分に目を向けられるようになった。

けっきょく「じぶんが小説をどう書くか」という問いのめぼしい結論にはまだ達していないのだが、どんな現実や空想も小説に書きだせたらいいなという願望がたぶん以前からあって、それで今は実生活のいちばん手近な空間や人々にもとづいた小説を書いている。

今まで述べた「考えかた」とはべつの由来、この一年短歌や歌詞を書いてきたなかで言葉に対する感覚がやしなわれたというのもあって、それはある流れに配置されたある言葉の「純粋さ」について敏感になったというようなことなのだが、今わりと書けている実感にはそういうのも手伝っている。

話が前後するかもしれないが、「自由さ」や「新しさ」にたどりつくためにはじぶん自身の純粋な姿を見いだすことが必要なのだと思う。

生きているだけで勝手にすりこまれていく価値観はたくさんあって、それは思想みたいな大きな対象だけではなく、ある一瞬生まれてすぐに消える発想だったり無意識だと思いこんでいる流れだったりいろんなところに隠れていて、そういうのを地道に取り除いていった先に無垢なじぶんなのか世界なのかが浮かびあがってきて、それはその人に固有の高い純度を保ったなにかだから、そこから自由で新しいものが生まれてくるんじゃないかと思う。

今じぶんはその過程にいて、今考えられるのはこれくらいのことなのだが、とにかく書きながら考えて考えながら書いて考えるために本も読んだりして、そういうことを続けていってまた考えかたが広がれば楽しいし、いい小説が書ければうれしい。