文学の凝縮、アイドルの拡散

3.『苦役列車』西村賢太(追記)

 昨晩寝ながら考えていたら、ちょこちょこ頭に浮かんできたことがあったので追記を。

 『苦役列車』に対する山田詠美氏の、

私小説が、実は最高に巧妙に仕組まれたただならぬフィクションであると証明したような作品」

という選評は、小説の執筆を生業としている人たちや、そうでなくとも好きで小説を書いている人たちにとって、もっとも根源的な希望そのもののことだろうと、妙に納得しました。

 つまりそれは、

「なんでも小説にすることができる」

という極めて強力な主張です。

 作者の私生活を題材としている私小説とは、いわば、プロットや人物造形が所与であるということに他なりません。

 ゼロから空想力に託して構築するのではなく、そのような、現実のありのままを母体として上質な作品に仕上げることができるのならば、それはもう、なんでもできてしまう神の所業のごとくです(言い過ぎか?)。

 

 私は今年の3月に、地下アイドルが主人公の小説を書きました。

 現代日本アイドルという存在はそれ自体明らかな文学性を有していながら、未だ文学に昇華していないと感じていたからです(いや、ただの趣味で書きたかっただけかも)。

 ですが、百枚くらいのその作品は、振り返ってみると、なかなかどうして私の筆力ではうまく描ききれませんでした。

 これまで自分が書いた他の小説よりも、やっぱり、書きづらい感じがあって。

 それは、アイドルというものが今まで小説として書かれてこなかったもの、蓄積のないものだからだと思います。

 しかし、山田氏の述べているような芸当がなしえるのであれば、それを文学に昇華させることは可能で、そういうことができる人間になるというのは、やっぱり、夢があると思います。

 

 まあなんというか、よくわからないけど、頑張ろうと思いました。