文学の凝縮、アイドルの拡散

1.西野七瀬と川端文学

 記念すべき初投稿です。

 めでたい。

 本ブログは私の好きなこと、文学や力学やアイドル等々について、とりとめなく書くことになろうかと思いますが、まあブログを始めた経緯や目的は追い追いとして、初回は肩の力を抜いて1つ小話をしようと思います。

 

 昨年の秋ごろのことです。

 ある友人から、

「おれは西野が嫌いだ。自分を客観視できていないから」

と打ち明けられた(?)ことがありました。

 西野というのは、乃木坂46の西野七瀬さんのことです。

 この発言について、西野さんが自らを客観視できていないという彼の批評自体は、私も納得するところでしたし、むしろ日頃から西野さんを拝見していて私自身そのように思っていたくらいです。

 しかし私は彼と違って、西野さんのことが好きだったのです。

 私は、彼の考えを改めさせたい気持ちになりました。

 その衝動は、せっかくなら彼にも西野さんのことを好きになって欲しいという平和的欲求のようでもありましたし、自らの嗜好を押し付けたいがための彼への反発心のようでもありました。

 私は西野さんが好きで彼は西野さんが嫌いだということについて少し考えてみると、それは私と彼の、他人への嗜好性のパターンの違いに起因しているのではないかと思い当たったのです。

 それは端的に言うと、「自分がなりたい人と自分が好きな人が一致するかどうか」ということで、彼は一致する、私は一致しない、という違いがあるように思われました。

 つまり私も彼も、自分が西野さんのようにはなりたくないという意見は共通なのですが(もちろん生まれ変わって顔ごと変えられるのなら別の話です)、それがイコール好き嫌いに繋がるかどうかの違い、ということです。

 しかしそう考えたときに、私はあっ、と閃いたような気がして口を開きました。

「君は川端文学が好きだろう? 西野七瀬が嫌いというのは、そのことと矛盾しているんじゃないのか?」

 川端康成は、彼が最も愛読する作家でした。そして私は、川端作品のヒロインというのは、西野七瀬的性質を備えているのではないかという革命的な仮説を思いついたのです。

 川端作品は「雪国」にしても「伊豆の踊子」にしても、主人公が遊女の元に通う話が多いですが、そこで描かれる遊女的女性像は、狭い世界で閉塞した生活を送っているため自らを客観視することができず、また決して利発というわけでもなくて、主人公との間にはある種の確固たる心的な隔絶があります。

 しかしそういった男女のないし人間同士の宿命的な近接しがたさみたいなものが、川端作品の叙情性の一端を形成しているように思います(解釈をそこまで拡大すると大半の文学作品が該当してしまうかもしれませんが)。

 またそう考えると、川端だけでなく、永井荷風など他の作家の書いた遊女の小説も、同じようなテーマが通底している気がしてきます。

 となれば、西野七瀬さんへの嗜好性というのは、日本文学が抱える大テーマの1つと等価であると言い切っても過言ではないでしょう。

 ともかく、川端作品のヒロインが有するそういった性質は西野さんと多分に共通している気がして、私は、

「もし川端が今生きていたら、きっと西野のことを大好きになっているはずだ」

と半ば妄言めいた仮定法を彼に説いたのです。

 彼は私の言説に対して、定かではありませんが、割合納得したような表情を浮かべていたと記憶しています。

 

 今でも彼とは、乃木坂46や他のアイドルさんの話をすることがあります。

 彼が現在、西野さんについて本当のところどう考えているのか、私の知るところではありません。

 改めて訊いてみるのも、なんとなく億劫な感じがします。

 ちなみに彼が一番好きなアイドルは、今も変わらず、昨年卒業された橋本奈々未さんのようです。

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))