書評、というほど大したものではありません。
最近読んだ本の、ちょっとした感想文を書いてみようかと思います。
西村賢太氏の『苦役列車』といえば、2010年下半期の芥川賞作品で、この回は朝吹真理子氏の『きことわ』とW受賞でした。
私は当時高校生でしたが、マスメディアでこの2人が美女と野獣コンビと評されたり、西村氏が風俗通いの話をしていたことは、今でも少し覚えています。
『きことわ』の方は読んだことがあったのですが、『苦役列車』は読もう読もうと思いつつずっと先延ばしにしていて、しかし、最近ようやく読むことができました。
森山未來さん、前田敦子さん等のキャストで映画化もされましたし、あらすじをご存知の方も多いと思いますが、これは日雇い労働で食い扶持をつなぐ若者のお話です。
いやしかし、読み始めてすぐにびっくりしました。
「あ、苦役列車ってこんな文体だったんだ」
西村氏は田中英光、藤澤清造といった私小説作家の影響を受けているらしいですが(私は両者とも読んだことがありません)、本作の文体も、なんというか、いささか古めかしい語彙や言い回しをベースとして、乾いた、男臭い感じの描写に溢れています。
少々長いですが、以下の、主人公が他の労働者たちとともにバスに乗せられて作業現場まで運ばれるシーンを引用します。
ああ、うまいな、と思いました。
そのうち、神田駅より合流してきた中年男は、何度となくこのバスの中で見た覚えもある肥満体だったが、これが貫多の隣りの席に座ると、すぐさま紙袋から惣菜パンみたいなのを取り出しムシャムシャやり始める。コロッケか何かを挟んでいるらしく、ソースの何んとも云えぬ香ばしい、よい匂いがイヤでも彼の忘れかけていた空腹感を刺激してくる。チラリと視線を向けてみると、次にその中年男はサンドイッチの袋をも開いたようで、砕いた茹で卵の匂いが横合いより一気に立ちのぼってくるのである。おまけにその男は、コールスローのようなパック詰めのサラダまで買ってきたらしく、それを匙を使ってシャクシャク小気味よい音を立てながら悠然と食っている様子に、根が堪え性に乏しくできている我儘者の貫多は、何かこの男をいきなり怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られたが、またチラリと眉根を寄せた目を投げると、ちょうどその男はサラダの容器に分厚い唇をつけ、底に溜まっていた白い汁みたいなのをチュッと啜り込んでいるところだったので、これに彼はゲッと吐きたいような不快を感じ、慌てて窓外へと視線を転じた。が、そのおかげで途端に空腹感の方は薄れ去るかたちとなってくれる。(p20)
また本作には、以下のように語尾に「感じ」とか「様子」とか持ってくる類の体言止めが多く用いられて、私の読んだことある作家で言うと、田山花袋なんかが確かこういう文章を書いていたような気がします。
するとこれがえらく素敵な思いつきとして、何やらそれまでの暗くふさがっていた心には、急に芳香混じりの明るい日射しがさし込んできた感じ。(p94)
さて、『苦役列車』(新潮文庫)は、3ページ程度の短い解説が石原慎太郎氏によって書かれていて、石原氏は芥川賞の選評でも本作を、
「この豊穣な甘えた時代にあって、彼の反逆的な一種のピカレスクは極めて新鮮である」
と賞賛していました。
これは平たく言えば(ある番組での西村氏との対談の内容から推察するに)、貧乏をちゃんと描くことは偉い、ということだと思います。
また山田詠美氏は同選評で、
「私小説が、実は最高に巧妙に仕組まれたただならぬフィクションであると証明したような作品」
と述べているのですが、これはどういうことでしょうか。
私小説が、たとえ作者の現実の身の上話を書いているものだとしても、小説である以上は、視点場をどこに設定するのか、何を描写して何を捨象するのか、どの程度まで書き尽くすのかといったような自由度が無数にあるため、いくら写実に徹しようとしたところで避けがたくフィクションの性質を帯びることになります。
そういう意味で、私小説は一般的に「ただならぬフィクション」のはずですが、ではなぜ、本作がそれを「証明したような作品」と言えるのでしょう。
そう考えてみたときに、私には例えば、物語の低俗さと作品の高尚さのギャップ、のような着眼点が思いつきました。
つまり本作は、登場するモノやコト、主人公の心情変化の様子などに、私小説の中でもとりわけ「低俗な」感じが漂っていて、けれども、作者の豪腕な筆力によってそれが低俗さを保ったまま文学作品としては立派に成立しているため、この大きなギャップを指差して、「ほら、私小説ってフィクションなんだよ」と何か手品の種を見破った風な口ぶりになってしまうのでしょうか。
このギャップが大きければ大きいほど、作者が筆力を駆使することによって読者を「騙している」ようにも見え(もちろん推理小説的な手法とは全く異なる意味においてです)、山田氏はそのことを「最高に巧妙」と評しているのかもしれません。
など、つらつらと書いてみましたが、どうでしょうかね。
授業や趣味で本の感想や批評を書く機会がたまにあるのですが、こういうのを書いているときって、自分が今書いていることが自分自身でよく分からなくなってきて、いつの間にか一度立てた主張に必要以上に固執し始めてしまい、まあ何かに必要以上に固執しなければ感想文や批評文なんて書けないものだろうなどと思いつつも、しかし冷静になろうとする理知的な自分がやっぱりいて、それは言い過ぎだなどとツッコミを入れられたりして、などとやっている内に疲れが押し寄せて筆が進まなくなる、といった具合。
批評文自体もまた文学だから、と哲学を専攻している友人が言っていましたが、その通りだと思います。
感想文や批評文を書くこともまた、多分先述した山田氏の話に通ずるところがあって、実は巧妙なフィクションを構築しているのだろうと思います。