文学の凝縮、アイドルの拡散

6.『地鳴き、小鳥みたいな』保坂和志ー結びの放棄

 『地鳴き、小鳥みたいな』所収 『地鳴き、小鳥みたいな』(50p程度の短編小説)について、「結びの放棄」と題して書いたレポートです。

地鳴き、小鳥みたいな

地鳴き、小鳥みたいな

 

 

 『地鳴き、小鳥みたいな』(2016年、講談社)が他の多くの小説と比較して、その具体的な手法がどうかということはさておき、ひとまず特異な書き方がなされているということ自体には、ほとんどの読者の共感を得られるであろうし、作者である保坂和志自身も、本作を含む短編集の刊行に際して「話が起承転結でまとまっていれば読者は居心地がいいのはわかっている。しかし思いというのは、起承転結でなく、凝縮と拡散、あるいは跳躍と立ち止まり、という運動の不連続な繰り返しだ(注1)」と述べている。それでは、具体的に本作の文体のどういった特徴が、作者の志向する「思い」の表現手法であり、また読者の感じる特異性に寄与しているのかを考えてみる。ここでは考えられる特徴のひとつとして、本作における「結びの放棄」を指摘し、その説明のために以下の2つの段落を引用する。それぞれ、車の中で「あなた」が「アクティング・アウト」な知り合いの話をしている段落と、その後「私」がアメリカの犯罪捜査のドラマを観たときのことを回想している段落である。

 

 1)それまでその子は万引きをつかまえるのなんて仲間を売るようで嫌で嫌で仕方なく、今度はそれでメンタルを病むかもしれないと感じた、収入はキャバクラ時代よりずっと少ないのに男は相変わらず自分にたかっている、カネが少なければ少ないなりのたかり方をするみみっちい男があらわれる、そうでなければサラ金でカネを借りてくる。そしたらところが男がスーパーと提携する警備会社の下請けで万引きを捕まえるのを専門にする会社を捜してきた、そんな専門業者があったことがだいいち驚きだ、窓の外が晩秋の午後の光で暖かい色調になっていたのが忘れられない。葉が紅葉して色づいたその色が空をほんのり染めるのだ。(p78)

 

2)蓄音器時代レコード盤にどうやって溝を刻みつけるかといえばラッパに向かって演奏した、再生するのとまったく同じプロセスをまったく逆に辿る、いや逆だ、蓄音器でレコードを再生するというのはレコードに記録するプロセスをそのまままったく逆に辿ることだった、そのと玉ではブツブツザリザリいう雑音みたいな音が土器の筋の模様から鳴った、吹替えだったのが残念だがまあだいたい同じ音を出しただろう、そこから声を拾い出した、ある操作では子音だけ拾い出しある操作では母音だけ拾い出すという風にたしかした。私は大声を出すわけではなかったが大声を出したくらい興奮した、うれしくなったに違いない、自分の気持ちでもこういうものはわからないものだ、うれしいでも高ぶるでも何でもいいが気持ちをいちいち言葉で説明する必要もだいいちない。(p84)

 

 1つ目に引用した段落では、「それまでその子は〜会社を捜してきた、」までは「あなた」が語った内容を「私」が要約して叙述したかのような書かれ方だが、そこから一転、「そんな専門業者があったことがだいいち驚きだ、」と「私」の感想が挿しこまれ、さらに唐突に、「あなた」の語る知り合いの話から離れて車の中から見た景色の描写に移っている。段落やまとまりを持った文章の末尾を風景描写で結ぶ、と言えば通常の小説のようにも聞こえるが、この場合は「あなた」の語りが一息ついたわけでもなければ、それらの境は読点で区切られているのみであるし、さらに「忘れられない」という強い表現が風景描写に用いられていることも合わせると、つまりこの段落は、各文に分担される意味内容、句読点の使用法、単語レベルでの意味の強弱という3つの点においてアンバランスなものになっている。

 2つ目に引用した段落では、今指摘した3つの点のアンバランスとはまた違った特徴が見られるように思える。「私は大声を出すわけではなかったが大声を出したくらい興奮した、」で段落を結ぶのではなく、「うれしくなったに違いない、自分の気持ちでもこういうものはわからないものだ、」と一歩引いた分析を現在の視点から加え、さらに唐突に「うれしいでも高ぶるでも何でもいいが気持ちをいちいち言葉で説明する必要もだいいちない。」と物語から逸脱したメタ的な批評(というよりもぼやき)を行っている。この段落の流れは例えるならば、途中までは緩やかに着地していくように見えた飛行機が、最後の最後で突然機体を上げて、急速に上昇飛行しながらカーブを描いて雲の中へ消えてしまったかのようである。

 これら2つの段落に共通することは、作者が「結び」を放棄していることである。「結び」というのは冒頭で引いた保坂の文章にも含まれる「起承転結」よりももっと原始的な技法であり、小説に限らずおよそ一般的な散文において、作品全体のみではなく、段落などもっと小さな文章のまとまりの範疇にも備わっているものである。「結び」によって前後の文章の流れや方向は特徴づけられ、読者の理解の助けとなるが、これはもちろん接続詞の存在とも密接に関係している。本作品が接続詞をあまり用いず読点の多用によって構築されており、これが結びの放棄に繋がっていることは、上に引用した2つの段落を見ても明らかだろう。

 最後に、本作の題名もまた、結びを放棄していることを指摘する。「地鳴き、小鳥みたいな」という文言は、「赤さ、りんごみたいな」という通常の倒置表現とは異なるもののように思われる。つまり通常の語順に並び替えたとき、「りんごみたいな赤さ」は何の問題もなく成立するが、「小鳥みたいな地鳴き」はどこか違和感があるように思われるということである。これは「地鳴き」という言葉に対してそもそも「小鳥」を想起させるニュアンスが含まれているためではないだろうか。だからわざわざ「小鳥みたいな地鳴き」と書くのが変な感じがするのではないか。広辞苑によれば地鳴きとは「繁殖期の「さえずり」に対し、鳥の雌雄の日常的で単純な鳴き方をいう」とあるが、実際、「地鳴き」でグーグル画像検索を行うと、図1のように小鳥の画像ばかりが表示される。よって、本作はその題名自体もまた、結びを放棄した特異性を有していると言えるのではないだろうか。

 

f:id:ippeinogion:20180628064145p:plain

図1:「地鳴き」のグーグル画像検索結果

 

(注1)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50072