文学の凝縮、アイドルの拡散

35.自己暗示から解放された実存主義の提示〜乃木坂46『帰り道は遠回りしたくなる』

 

帰り道は遠回りしたくなる(TYPE-A)(Blu-ray Disc付)(特典なし)

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 さきほど乃木坂46の新曲MVが公開されました。

 西野七瀬のラストシングルということもあって、グループの表題曲とは思えないほど西野七瀬しか映っていません。笑


乃木坂46 『帰り道は遠回りしたくなる』

 では映画的なノリでMVを鑑賞してみましょう。

 本作のストーリーは、ある日バスに乗車できたかできなかったかで世界線が分離し、そのまま美大に進んだ西野とアイドルになった西野のそれぞれの人生がオーバーラップする、みたいな感じです。

 とはいえ通常の意味で世界線が分かれたという風でもなくて、というのはことあるごとに二人の西野が出くわしお互いの存在を確認し合っているからです。

 なので、ある西野がもう一方の西野の幻想を見ている、と考えるほうがしっくりくる気もします。

 まあそうすると両者ともども存在が幻想化してしまい主体が喪失するため、本作は通常の意味での「ファンタジー」とも異なる「メタファンタジー」みたいな枠組みになるのでしょうか。

 

 アイドルになった方の西野は大変そうな毎日を過ごします。

 とうとうレッスンを逃げ出すんですが、踏ん張る契機になったのはカフェでサボっていたときに偶然美大側の西野の世界に触れたことです。

 喪失したと思っていたものが実は自分の内側に残っていて、結局自己を規定する要因は居場所や肩書きによらないのだと気づいたことが、この転換を引き起こしたのでしょうか。

 なんか実存主義っぽいですね。

 逆に美大の西野は美大の西野で、アイドルの西野のファンになってカラオケでそのアイドルグループの楽曲を歌ったりしています。

 そういう風にして、二人の西野はお互いに影響を及ぼし合っていきます。

 

 そして最後のシーン、ライブ会場で二人の西野が対面します。

 ちなみに観客はオールスタンディングでキャパは見たところ千人程度、なんキニ!やナナランドのライブくらいの規模感でしょうか、「いや結構な地下アイドルやないかい!」とつっこみたくなりました。

 客席の西野はステージの西野に自分を重ね合わせ、ステージの西野は客席の西野に自分を重ね合わせ、お互いを羨ましがります。

 まさに隣の芝生は青い状態です。

 ここでてっきり、「いや正しいかどうかなんてわからないけど、自分の選んだこの道を精一杯頑張るんだ」的な感じ(これはエンタメの典型的な開き直り方であると同時に、実際に多くの人間の典型的な意思決定の振り返り方でもあると思います)で終わるのかなと思っていましたが、そうではなく物語はそこから斜めに展開しました。

 二人の西野はお互いに向かって「ありがとう」と伝えます。

 端的に言って、最後のこの一言の謝意が作品に詩的世界の広がりをもたらしています。

 全く表層に徹して考えると、お互いがお互いの頑張る支えになったからありがとうというごく単純な解釈ができるのですが、本作においてお互いの関係は「自分の選択できなかった道を歩んだ仮想的な自分」という特殊なものなので、その相手に対して羨望から感謝へとなめらかに感情が接続するのは、飛躍があるというか、得心するには少し想像力を要します。

 

 人生において分岐点となるような行動選択、そうでなくても日常の小さな行いの堆積に対する向き合い方、またそれらの振り返り方に対して、本作では上述したような少し珍しい視座を与えています。

 それは、手触りのあるものだけを信じるような実存主義にも近い姿勢をとりつつ、選択自体の是非は放棄し自己暗示から解放されるという、一見矛盾した情操のゆらぎのことです。

 

 以上、乃木坂46の新曲MVについて適当に考えてみたことです。

 まとめると相変わらずなぁちゃんはかわいいね。

34.詩的断片の重なり〜アンドレイ・タルコフスキー『鏡』

 ロシアの映画監督で最も著名とされているタルコフスキーの映画を観ました。

 1975年公開の本作は、彼の自伝的作品らしく、彼の撮った映画の中でも特に難解な作品と評されているみたいですね。 

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 私も、観ていて全く筋がつかめませんでした。

 ロシアの田園の風景の中で、時間軸がとびとびの日常が流れながら、頻繁に詩が朗読され、ときおり戦時中の白黒映像が挿入されます。

 個人的にはこういうやり口は結構好きです。

 小説だと、誰だろう、思いつきそうで思いつきませんが、川端がもっと適当になった感じ、それか『百年の孤独』を書いたマルケスとか、現代作家だと谷崎由依氏とか近いかもしれません、あるいは黒田夏子氏の『abさんご』をもう少し整えた感じ。

 

 まあいずれにしても、私の手に余る作品でしたね。

 とは言っても一方で、芸術作品は難解さ自体が魅力となる性格があるので(難解にも種類があると思いますが、ここでは「いい難解さ」とでも言っておきましょう)、理解できないこと自体が正当な味わい方な場合もあるのだと思いますが。

 

 短いですがこんな感じで。

33.永沢さんにはなりたくない

 

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 世間では、村上春樹の小説はネタ扱いされたり、おしゃれを気取っていてつまらないとか批判されることが多々ありますが、多少なりとも文学をかじっている人たちの間で、村上春樹のことを非難する人はひとりたりとも見たことがありません。

 毎年ノーベル文学賞候補の筆頭に上がるのも伊達ではなく、国内外問わずもっともリスペクトされている現代作家の一人であることは間違いありません。

 まあそんなのは今更私が言及することでもないのですが......。

 

 さてそんな村上春樹の言わずと知れた傑作『ノルウェイの森』の中で、永沢さんという登場人物は特別異彩を放っています。

 本当になんでもできてしまう完璧な男、という感じ。

 いくつか有名な名言も残していますね。

 「自分に同情するのはもっとも下劣な人間のやることだ」とか「俺は死後30年が経過した作家しか読まない、ただしフィッツジェラルドは例外だ」とか。

 

 でいったん話が変わるのですが、最近、私のとある友人がこっそりユーチューバーをやっていたことを知りました。

 ツイッターのつぶやきも、1万いいね越しているものがざらにあって、さながらインフルエンサーという感じでした。

 けどなんというか、彼のツイートや動画を見ていて、少し残念な気持ちになった自分がいました。

 これは彼をディスっているわけでもなんでもないのですが、思わずうーんと首を捻ってしまった。

 私が感じた違和感は、一言で言うと「いやお前そんな大衆的価値観への迎合に必死になってどうすんねん」っていう風なものです。

 彼が心底好きでそういうことをやっているとは、私にはどうしても思えなかったんですよね。

 好きでやってるんだったらそれはそれで残念、あるいはやっているうちに好きが肯定されていくのかもしれませんが。

 とにかくまあ、ある種のセンスもあるし能力も高いから、彼にとってはバズるツイートや動画を生み出すことがさほど難しくないのだと思います。

 それって多分、できちゃうから、多くの人には無理だけど自分にはこなせることが目の前に転がっていて、わざわざそれを見過ごすのも気持ち悪いから、っていう衝動が関わっている気がします。

 しかし自分の「適正」にそぐおうとするのは、自分の内に根差す意思や嗜好とは乖離した行動であって、またそういう行動を続けているからいつまでも「主体」が宙ぶらりんになったままという循環もあると思います。

 まあ「自分はこれがしたいんだ」みたいな確固とした意思を持つことは、難しい上にある意味でとても不自然なことですし、それならむしろ割り切って主体を大衆的価値観にすげかえてしまうのがアイデンティティを肯定するためのひとつ有用な手段だというのはよくわかるのですが......。

 

 そして話を戻すと、永沢さんの生き方は、上述したユーチューバーをやっている友人の例に多少通じるところがあると思っています。

 夜の街に頻繁に繰り出し女の子と寝ることを繰り返していた永沢さんが主人公からわけを尋ねられたさいに、「可能性が転がっていたら見過ごせないものなんだよ」と返答していたことなど、永沢さんは結局自分の「適正」に支配されていて「やりたいこと」みたいなのが欠落しているんですよね。

 外務省へ就職する理由も「高いレベルで力試しがしたいから」だし。

 まあ確かに、そういう「自己成長したい」系の目標を掲げる人は(とくに就活を通して)たくさん見てきましたが、なんとなく残念だなあと思ってしまいます。

 なので、永沢さんが強靭な精神力や決断力を備えていることは疑う余地がないのですが、ことにどう生きるかという話になると、途端に脆弱さを露呈しているように思えます。

 そのやりきれなさが例えば、主人公が永沢さんに決して心を許さないきっかけとなった「ある日女の子にひどく意地悪な態度を取っていた」みたいな言動に、ひずみとなって現れていたのではないでしょうか。

 好きなことややりたいことというのは、もう運否天賦のように降ってくるものでしかないというか、永沢さんもそれをわかった上で自分の嗜好性の薄弱さに苦しんでいたようにも見えるし、仕事なり恋愛なり適当に自己暗示かけて生きがいとか感じちゃったりする凡百の人間があふれている中で、それが見つからないのは一種の知能病なのだと思いますが、まあいずれにしてもずいぶん大変そうですよね永沢さんは。

 

 短いですが、ユーチューバーの友人のことを知ってからふとそういうことを考えました。

 だから私は、永沢さんみたいにはなりたくないと思いました。

 そういう生き方は進歩がありそうで進歩がない気がするので。

 

 まあ、それも言うは易し行うは難しなんですが......。

32.鉄パイプとおっぱい〜スタンリー・キューブリック『時計じかけのオレンジ』

 

時計じかけのオレンジ [DVD]

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 小説ではなく映画の方です。

 公開当時は自殺だか暴力事件だか、いろいろ社会への「悪影響」があったとかなかったとか。

 観ようと思ったきっかけは、北野武の好きな映画10本にリストされていたからです。

 

 とにかく鉄パイプとおっぱいがたくさんでてきます。

 拳銃は出てこない、薬もないっていうのはちょっと特徴的かもしれません。

 暴力と性描写の目白押しっていうのは、なんというか、小説にしろ映画にしろひとつの「型」としてあって、それは人間に潜在する動物的な欲求の生々しい具現なわけですが、だからこそ安易にそれに乗っかろうとすると作品が破綻してしまうものでもある、という難しさをはらんでいる思います。

 なので、本作みたいな、それで成功している作品ないし数多のトリビュート作品の元になっている作品を仔細に観察することは、学ぶことが多いですね、たぶん。

 風景だけを移したシーンみたいなのはほとんどなくて、展開のスピーディさはエンタメなのですが、狂人の心理っていうのはそもそも定義として根本的な部分が判然としないものなので、それ自体が必然的に文学の雰囲気を醸し出すトリガーになっているのだと思います。

 

 あと本作について言えば、タイトルのつけかたが面白いですね。

 時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)って、本作の内容と直接的にはなんの関係もないし、なんかいろんな小説や映画のタイトルに汎用できそうで、そのフレーズの響き自体がよい、って感じのもの。

 考えてみると、そういう、作中の出来事と直接的な関連のない、一言の言及すらもされない、けどふんわり全体を表している風なネーミングの作品は昔から一定数存在しますね。

 小説だと例えば、夏目漱石の『こころ』、太宰治の『斜陽』、石原慎太郎の『太陽の季節』、丸山健二の『夏の流れ』、最近だと又吉の『火花』など......。

 

 そういうタイトルのつけかたって、俳句の「取り合わせ」みたいな感じがして自分は結構好きです。

31.風景風景また風景ー是枝裕和『幻の光』

 

幻の光 [DVD]

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 是枝監督のデビュー作です。

 是枝監督と言えば『そして父になる』が超絶有名ですが、最近『万引き家族』がカンヌのパルム・ドールというかなりすごい賞を受賞したらしいですね。

 

 本作は宮本輝の同名の小説を映画化したものです。

 感想としてはとりあえず、ひたすら風景のカットが詰め込まれている......。

 とりわけ、近景が暗く閉じて遠景が明るく広がっているという、トンネルの中から外をのぞいているみたいなカットが多かった気がします。

 

 風景が淡々と切り替わり登場人物たちも多くを語らないので、確かにいわゆる文学的な雰囲気(いわゆる文学的な雰囲気とは?)が立ち上がっている気はするのですが、私には作品のよしあしが正直よくわかりませんでした。

 悪くないということだけはわかるのですが。

 まああんまり映画というものを観たことがないっていうのと、それ以上に自分の手で映画を撮ったことがないっていうのが、私の映画を見る目を乏しくしている理由だとは思うのですが......。

 小説であれば、ひとつひとつの文章やそれらの連なりが自然かとか巧いかとか、自分にこんな文章がかけるかみたいな観点からある程度は評価したり感心したりできるのですが、残念ながら映画に対してはあんまりそういう評価の手法や素養を持ち合わせていません。

 映画に関係ありそうな、「写真」という対象の批評についても、ほとんど見識がないです。

 聞いたところによると、最低限バルトの『明るい部屋』を読まないといけないみたいですね、写真を論じるには(適当)。

 一応趣味で水彩画を描くことがあるので、絵画であれば多少常人よりも見る目が養われているとは思うのですが......。

 

 うーん、芸術は何にしても自分で作り手側を経験してみないと鑑賞の目が決定的に欠乏したままであるというのが私の持論なので、さしあたり早急に自分で映画を撮ってみるのがよいのだろうなと思います。

 シェアハウスで1年以上に渡って撮影してきた写真素材がたくさんあるので、それらを適当に並べて、BGMつけて、ときどきセリフの文章を挿入するみたいなサイレントのショートムービーを作れたらいいかな。

 けどそろそろ群像に出す用の小説を書き始めなければいけない時期なので、それに取り掛かるのはしばらく後になりそうです。

30.ファンタジーの描写方法〜安部公房『壁』

 ブログを始めて約4ヶ月がたち、これでちょうど30本目の記事となりました。

 最近は映画の感想が続いていましたが、今回は原点回帰(?)して小説の感想を書きます。

 

壁 (新潮文庫)

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 安部公房の1951年の芥川賞受賞作『壁ーS・カルマ氏の犯罪』を読みました。

 安部公房と言えば、現実離れした世界をひとつ設定して、その中で生々しい、怖いような、知的で「リアル」な描写をつづっていくという印象がありますが、本作もまさにそういった小説です。

 以下は主人公が胸の中に(比喩でなく)吸い込んだ、雑誌の見開きの荒野の写真についての描写です。

 するとぼくの眼はその頁に吸いつけられるように動かなくなりました。砂丘の間をぼうぼうと地平線までつづく曠野の風景が頁いっぱいにひろがっていたのです。砂丘にはひょろひょろした潅木、空には部厚い雲が箱のように積み重なっていました。人影はありません。家畜はおろか、カラスの影さえ見えません。曠野を一面に覆う草は針金のようにやせて短くまばらで地面がすけて見えるほどです。草の根もとには砂がさらさらと風に流れてひだをこしらえています。(p28) 

 

 また以下は、「せむし(背骨の曲がった人)」と呼ばれていた者が腰を反らせすぎて「はらむし」になり、しまいには「ロール・パン氏」という呼称に変わって、映写機の前で詩を朗読したあとの場面です(意味不明)。

 ロール・パン氏は、その朗読のあいだも相変わらずそりかえるのをやめようとしなかったので、次第にわけの分からぬ塊りになり、体の各部が互いにめりこみあってついにすっかり消滅してしまいました。最後の一句を言ったときには、もう声だけしか残っていませんでした。

 そんな状態がありうるということを知ったのは、むろんこれがはじめてでしたが、ぼくは大して驚きませんでした。それどころか、そんな無意味な詩を朗読するようなものには当然起りうべきことだとさえ思いました。(p130)

 

 さて一般に優れたファンタジーの描写とは、空想世界にもかかわらずさも手の届く場所にあるかのようにリアルな物体の描写やリアルな心情の描写、と言及できるかと思います。

 で本作はどうかというと、まず本作では物体の描写はあまり詳細には行いません。

 「名刺が手を伸ばした」みたいな文を書いておいて、それ以上名刺からどういう風に手が生えているのかみたいなことについては描写しません。

 それがひとつ本作の大きな特徴だと思います。

 対して心情の方は、結構細かに描写します。

 細かと言うか、そういう状況であればこういう風に感じるだろうということを、リアリティー溢れる文章で叙述します。

 さっきの2つ目の引用の2段落目みたいな感じです。

 本作にはそういった「漠とした物体、くっきりとした心情」みたいな姿勢が一気通貫しています。

 

 それにしても、こういう風なたいぶ「ふざけた話」を、ちゃんと小説に仕上げることのできる筆力は、とても羨ましいですね。

 『壁』みたいなのが書けるんだったら、もう何書いたって小説が成立しちゃうっていうっていう感じがしますよね。

 私はこれまで主人公が女性であったり聾者であったりする小説を(趣味として)多く書いてきたのですが、これは私自身とは異なる人種を主人公に置いているということであって、つまりある意味でファンタジーを設定しているということです。

 「作り話」の想像を膨らませることが面白いし、また巧妙な感じがするっていうのもありますし、そこに間接的に自分の普段考えていることを投影できた瞬間というのが快感であったり、まあそうする理由はいくつかあると思うのですが。

 とにかくファンタジーの描写というのは、私にとってはそれなりに大きなテーマであって、私小説の対極に位置づいた作り話の純文学みたいなものに、私はいつからか強い関心を抱いていました。

 そういう都合があって、本作は、というか全体的に安部公房の作品は、私にとって恰好の文学教材となっています。

29.純文からエンタメへの架橋ー北野武『アウトレイジ』

 

アウトレイジ [DVD]

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 夜の12時前から同居人らと居間でトランプギャンブルを始めると、途中やよい軒に行った以外はほとんど休みなく、翌日の昼の3時ごろまで続きました。

 私は1万4千円ほど勝ちました。

 そうして各々の部屋に戻って、窓の外の仄明るい光の差し込む部屋で、ひとりデッキにDVDを差し込みました。

 映像が始まってすぐは頭がうつらうつらしていたのですが、十分ほど経過したころ暴力的なシーンが挿入され、眠気が覚め、全く予想もしていなかったことにそのまま最後まで視聴することができました。

 

 感想はまず、同じくヤクザの世界を描いている『HANA-BI』や『ソナチネ』が純文学に近い雰囲気であるのに対して、本作は人物の描像であったりカットのスピード感みたいなものがエンタメのそれに近かったことです。

 とはいっても、北野武演じる主人公の造形はさきほどあげた2作の延長として観ることのできるものでもあって、それがエンタメの世界観の中に調和しているのは不思議な感じがしました。

 

 とにかく人が次々撃たれて死んでいくっていうのは、まあ、これについて考えるのは結構難しいですね。

 別にそれ自体は、作品の是非であったり純文かエンタメかみたいなことは何も規定していなくて、むしろ視聴者をとりまく社会環境的な要因によって評価が変わってくるたぐいのものと言いますか。

 例えばよく言われるように、映画『君の名は。』で巨大隕石が町を襲うという事象は直近で東日本大震災を経験した日本の社会環境であったからこそ共感を得ることができたのであって、もしも天災から縁遠い場所に住むひとびとであれば、「何この取ってつけたような展開」となってしまうかもしれない、みたいなことに『アウトレイジ』の過剰なまでの暴力描写も通ずるところがあるのではないでしょうか。

 

 とまあこんな感じでいつも通りとりとめなく書いているのですが、この記事を書き始めてそうそうに猛烈な眠気に襲われ、昨夜7時ごろ就寝しました。

 それから未明の3時ごろに同居人に起こされて、髪の毛を切らされました。

 それからもう1人の同居人と合わせて2人の同居人が、それぞれ別の理由によってスペインに発つということで、つい先ほど家から送り出しました。

 で、いま記事の続きを書いているという状況です。

 3LDKの部屋にひとりというのはなんとも物寂しいですね。

 

 他の同居人が不在な今後2週間を含めた10月後半は、群像新人賞の小説を書くこと、次に研究、あとは小説を読んだり映画を見たり、といった過ごし方になろうかと思います。