文学の凝縮、アイドルの拡散

55.わたしもあなたも異邦人〜アルベール・カミュ『異邦人』窪田啓作訳

 

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

 

 1941年刊行、言わずと知れた最も有名なフランス文学、ひいては最も有名な世界文学のひとつだと思います。

 ずっと前から古本を購入して手元には置いてあったのですが、ようやく読みました。

 

 まず取り上げたいのは、とくに前半部分の、読んではそのまま頭の中をすりぬけていってしまうような、そういう特性を持ったつかみどころのない文章です。

 10ページくらい読んで、そのあと数十分時間を置いてページを開くと、直前までの話の流れがまったく思い出せない、という具合です。

 語彙は決して難しくないのですが、短文が多く、描写の対象が目まぐるしく切り替わり、一見不必要な情景描写が入ってきたりして、おまけに登場人物がぽんぽん増えていくので、なんともストーリーが掴みづらいという状況に読者を陥れているのではないかと推測します。

 

 後半からは主人公の裁判が始まり、話の流れがはっきりとしてきます。

 本作品の描き出しているテーマはあえて言うなれば、並々ならぬなんらかの行為、とりわけ殺人を働いてしまうことが、何を持ってして異常と断定できるのか、そういうことってすんなりと、日差しが少しまぶしくなった程度の外力で起こりうるかもしれない、行為のメカニズムなんて論理的に言明できるものでもない、しかし大衆は人間のそういった部分を矮小化し構造化し、法律とか宗教とか一見立派なシステムによって片付けてしまおうとする、が私にとってあらゆる行為とはもっと混沌としていて、熱っぽく、はてしなく空虚な広がりである、て感じでしょうかわかりませんけど。

 

 われわれは一緒に外出した。レエモンは私にブランデーをおごり、それから、球を突いたが、私は全然当たらなかった。更に女を買いに行こうと誘われたが、そんなことは好きではないので、いやだといった。それでわれわれはしずかに家に帰って来たが、彼はその情婦にうまく制裁を加えたことに、どんなに満足しているかを、私に語った。私に対しては、彼は大層おとなしいように思われた。これは楽しい時刻だ、と私は考えた。(p42) 

 こういう自分の瑣末な心情を分析的に記述するのは、ひとつ本作の文体の特徴かと思います。

 

(前略)そのとき、すべてがゆらゆらした。海は重苦しく、激しい息吹を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の特殊な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。(p64)

 前半部分のラストシーンです。

 レトリックが爆発していますね。

 

 まあとにかくこういう小説を読むと、自分も早く書いてやろうという気が触発されるので、すばらしいです。

47.めっちゃ平易に短歌を説明した良書〜穂村弘『はじめての短歌』

 

はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)

はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)

 

 タイトルのまんまですが、めっちゃ平易に「短歌」を説明してくれる良書です。

 短歌とは何か、短歌はどう読む(詠むの方ではなく読解するの方)のか、など。

 本書ではよい短歌とその「改悪例」を示して、もとの短歌のどの部分がうまいのかということについて穂村氏が優しく説明します。

 改悪例というのは、たとえばこういう感じ。

空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態

[改悪例]空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋は散らかっている(p12)

 

大仏の前で並んで写真撮るわたしたちってかわいい大きさ

[改悪例]大仏の前で並んで写真撮るわたしたちってとても小さい(p16)

 

「煤」「スイス」「スターバックス」「すりガラス」「すぐむきになるきみがすきです」

[改悪例] 「煤」「スイス」「スターバックス」「すりガラス」「すてきなえがおのきみがすきです」(p54)

 てか3つめの句すごいですよね笑

 

  私自身は、俳句は母が趣味でやっていることもあり若干馴染みがあるのですが、短歌や詩はたぶん作ったこともほとんどないし、よく知りません。

 本書などを読んだ感じの印象では短歌は俳句に比べて定型を守らないことがおおい印象を受けました。

 俳句はよほどのことがないかぎり575を簡単には崩さない、短歌は割と軽々と57577を崩す、という気がします。

 俳句は削ぎに削ぎ落とした言葉で表現、短歌はだらっと書くパターンが割とある、という印象も受けました。

 季語の有無の違いもありますね。

 俳句だと、たとえば上五、中七で季語が現れないと、おお最後にどんな季語が来るのだろう的な読みかたをするものだと思うのですが、短歌にはそういうのはありません。

 

 あと本書の特徴をひとつあげるならば、少しみた感じ他の穂村氏の著作もわりとそうだと思いますが、穂村氏が短歌(ないし一般に詩歌)とはどういう営みなのかということについてたびたび言及しようとしていることです。

 本文中の言葉をいくつか引用すると、「社会化や効率化から逃れるもの」「生き延びるために生きないこと」「小さな死の意識と共有」的なことを述べています。

 穂村氏の短歌論は、なんか読んでいて、おぉあついぞ、と思わせてくれる文章が多くてよいです。

 

 とにかく、最近本書等とおして詩歌に強い興味を持ったので、穂村氏が短歌を始めるきっかになった塚本邦雄や、寺山修司が短歌を始めるきっかけになった中城ふみ子など、そのあたり調べてみたり、そのうち自分でも短歌を作って新人賞に応募してみようと思った次第です。

43.文体の抜群のユニークネス〜若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』

 

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

 

 

 63歳(昨年)若竹千佐子氏による史上最年長文藝新人賞受賞作、かつ前々回の芥川賞受賞作。

 読み始めてすぐ、これは相当な傑作だ。

 ここ最近読んだ小説の中で一番おおと唸らされた気がします。

 とにかく文体のユニークネスという点において、他のあらゆる小説から抜きん出ている作品です。

 

 地の一文の中で、標準語と東北弁が往復し、三人称と一人称が往復し、言葉遣いが波打つようにたゆたい浮きつ沈みつ繰り返します。

 さりながら、時至り、夫なる人も隠れては、どんなに叫んでも何にもならない。そうなると涙振り払い、桃子さん自ら新聞紙丸めて、それも間に合わないときはスリッパのかかとでもって、思いっきり引っぱたく、命中すれば多いに快哉を叫び、自分にも獣の本性まごうことなくあったわいなどと納得し、ふつふつとたぎるものに喜んだりしたものだった。それが今はどうよ。近頃はまったくそんな気も起ぎねのは、ねずみの醸す音のせいだけでねべも、いったいおらのどんな心境の変化なんだか、と誰かが言い、すぐにまた話題は転じて、だどもなして今頃東北弁だべ。そもそもおらにとって東北弁とは何だべ、と別の誰かが問う。そこにしずしずと言ってみれば人品穏やかな老婦人のごとき柔毛突起現れ、さも教え諭すという口ぶりで、東北弁とは、といったん口ごもりそれから案外すらすらと、東北弁とは最古層のおらそのものである。もしくは最古層のおらを汲み上げるストローのごときものである、と言う。(p15)

 選考委員の奥泉光の選評

「本作はひとりの老女の内面の出来事を追うことに多くの頁が割かれて、彼女の記憶や思考を巡る思想のドラマが一篇の中核をなすのであるが、こうした「思弁」でもって小説を構成して強度を保つのは一般に難しい。ところがここではそれが見事に達成されている。」

 について、私もまったく同じ感想を抱きました。

 思弁的にしても何にしても、特異な文体というのはそれ自体成立させることが難しいから特異なのであって、にもかかわらず特異な文体で作品としての強度を保っている小説には脱帽するよりありません。

 

 安部公房にしろ村上春樹にしろ町田康にしろ、もちろん本作を書いた若竹千佐子氏にしろ、他から卓越して特異な文体を使いこなせる作家を読んでいると、大した筆力だと羨ましい限りです。

39.エスプリ的な文章〜堀江敏幸『熊の敷石』

 

熊の敷石 (講談社文庫)

熊の敷石 (講談社文庫)

 

 本作は堀江敏幸の2000年下半期芥川賞受賞作品です。

 フランスで生活する日本人の話で、本人もフランス文学者、わりと私小説的な作品らしいです。

 筆致は軽やか、突然時間軸を遡ったり、場面が切り替わったり、内省的な文章と風景描写が混じっている感じもあって、こういうのを「音楽的な文章」というのでしょうか。

 私の知っている範疇だと村上春樹に近い気もしますが、それとも違います。

(前略)腸詰めの産地として知られる町を抜け、丘の起伏に沿ってくねくねまがる見晴らしの悪い道をたどり、谷あいの小川を右手に見ながら走っているとだんだん景色が涸れて白っぽい岩がむきだしになってくる。この地方がシードルの産地になったのは水の質が悪く、生水より酒を飲んだ方がましだからなんだというヤンの解説を聞きながらさらにしばらく走ると川沿いにお目当ての採石加工場があったが、やはり週末に働きに出ている職人はひとりもおらず、門は固く閉じられていた。(講談社文庫 p39)

 

(前略)そうするうち彼女は席を立って、表面がみごとな飴色に輝くタルト・タタンと、ヤンの家では味わうことのできなかったエスプレッソを運んできてくれた。さあ、自家製タルトを召し上がれ。ところが、期待に胸をふくらませ、ひと切れ口に入れたとたん、私は顎がはずれるような痛みに襲われて思わず顔をしかめ、その瞬間、記憶がパリ郊外に飛んだ。いつのことになるのか、あれは暖かい春の日の午後、ペタンクの帰りにヤンのアトリエに立ち寄ったとき、どうも口寂しいなと漏らした私の言葉をとらえて彼は立ち上がり、冷蔵庫をのぞいてから、時間はかかるけれど、お菓子を焼いたら食べるかい、と私に尋ねた。お菓子って、きみが焼くのか? もちろんだ。じゃあ試したいもんだね。彼は大量のニンジンとまな板とピーラーと包丁をテーブルに運び、こいつをみじん切りにしてくれ、と私に命じた。自分でやるんじゃなかったのか? そのくらい手伝えよ。(p119)

 芥川賞の選評をみると、黒をつけているのが二人いて(芥川賞選考委員らによる投票は二重丸、丸、三角、四角、黒四角、黒三角、黒丸を用いて行われます)、両人とも「エスプリ」という言葉を使っています。

 

 宮本輝「作品の主題なのかどうなのか、熊の敷石なるものも、私には別段どうといったことのないただのエスプリにすぎないのではないかという感想しか持てなかった」

 河野多惠子「彼等の会話、幾つものエピソード、食事や風景のこと、いずれもエスプリもどき、知性まがいの筆触しか感じられない」

 

 エスプリという言葉は、わたしもよく意味を解していなかったのですが、精神とかウィットとかいうことを意味するだけでなく、日本語で用いられる場合には「フランス人的な明晰でドライな考え方」といった風なニュアンスが加わるようですね。

 なのでこの二人の用いる「エスプリ」の中には「フランスもどきのペダンチック(衒学的)な文章」みたいな否定的なニュアンスが込められているみたいですね。

 

 私は(一時期ラテンアメリカ文学の授業を受講し多少触れていたのを除けば)ほとんど海外文学を読んだことないので、フランスっぽいとかロシアっぽいとかその中でもさらに誰っぽいとか全くわからないのですが、まあおいおいその界隈にも手を出したいと思っています。

 とにかくカミュを読んでおきたいのと、あと三島由紀夫が推していたゲーテは読んでみたいですね。

 あとアジア系の作家を誰一人として知らないので、そのあたりのノーベル賞受賞作家の作品でも読んでみようかと思っています。

33.永沢さんにはなりたくない

 

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

 

 世間では、村上春樹の小説はネタ扱いされたり、おしゃれを気取っていてつまらないとか批判されることが多々ありますが、多少なりとも文学をかじっている人たちの間で、村上春樹のことを非難する人はひとりたりとも見たことがありません。

 毎年ノーベル文学賞候補の筆頭に上がるのも伊達ではなく、国内外問わずもっともリスペクトされている現代作家の一人であることは間違いありません。

 まあそんなのは今更私が言及することでもないのですが......。

 

 さてそんな村上春樹の言わずと知れた傑作『ノルウェイの森』の中で、永沢さんという登場人物は特別異彩を放っています。

 本当になんでもできてしまう完璧な男、という感じ。

 いくつか有名な名言も残していますね。

 「自分に同情するのはもっとも下劣な人間のやることだ」とか「俺は死後30年が経過した作家しか読まない、ただしフィッツジェラルドは例外だ」とか。

 

 でいったん話が変わるのですが、最近、私のとある友人がこっそりユーチューバーをやっていたことを知りました。

 ツイッターのつぶやきも、1万いいね越しているものがざらにあって、さながらインフルエンサーという感じでした。

 けどなんというか、彼のツイートや動画を見ていて、少し残念な気持ちになった自分がいました。

 これは彼をディスっているわけでもなんでもないのですが、思わずうーんと首を捻ってしまった。

 私が感じた違和感は、一言で言うと「いやお前そんな大衆的価値観への迎合に必死になってどうすんねん」っていう風なものです。

 彼が心底好きでそういうことをやっているとは、私にはどうしても思えなかったんですよね。

 好きでやってるんだったらそれはそれで残念、あるいはやっているうちに好きが肯定されていくのかもしれませんが。

 とにかくまあ、ある種のセンスもあるし能力も高いから、彼にとってはバズるツイートや動画を生み出すことがさほど難しくないのだと思います。

 それって多分、できちゃうから、多くの人には無理だけど自分にはこなせることが目の前に転がっていて、わざわざそれを見過ごすのも気持ち悪いから、っていう衝動が関わっている気がします。

 しかし自分の「適正」にそぐおうとするのは、自分の内に根差す意思や嗜好とは乖離した行動であって、またそういう行動を続けているからいつまでも「主体」が宙ぶらりんになったままという循環もあると思います。

 まあ「自分はこれがしたいんだ」みたいな確固とした意思を持つことは、難しい上にある意味でとても不自然なことですし、それならむしろ割り切って主体を大衆的価値観にすげかえてしまうのがアイデンティティを肯定するためのひとつ有用な手段だというのはよくわかるのですが......。

 

 そして話を戻すと、永沢さんの生き方は、上述したユーチューバーをやっている友人の例に多少通じるところがあると思っています。

 夜の街に頻繁に繰り出し女の子と寝ることを繰り返していた永沢さんが主人公からわけを尋ねられたさいに、「可能性が転がっていたら見過ごせないものなんだよ」と返答していたことなど、永沢さんは結局自分の「適正」に支配されていて「やりたいこと」みたいなのが欠落しているんですよね。

 外務省へ就職する理由も「高いレベルで力試しがしたいから」だし。

 まあ確かに、そういう「自己成長したい」系の目標を掲げる人は(とくに就活を通して)たくさん見てきましたが、なんとなく残念だなあと思ってしまいます。

 なので、永沢さんが強靭な精神力や決断力を備えていることは疑う余地がないのですが、ことにどう生きるかという話になると、途端に脆弱さを露呈しているように思えます。

 そのやりきれなさが例えば、主人公が永沢さんに決して心を許さないきっかけとなった「ある日女の子にひどく意地悪な態度を取っていた」みたいな言動に、ひずみとなって現れていたのではないでしょうか。

 好きなことややりたいことというのは、もう運否天賦のように降ってくるものでしかないというか、永沢さんもそれをわかった上で自分の嗜好性の薄弱さに苦しんでいたようにも見えるし、仕事なり恋愛なり適当に自己暗示かけて生きがいとか感じちゃったりする凡百の人間があふれている中で、それが見つからないのは一種の知能病なのだと思いますが、まあいずれにしてもずいぶん大変そうですよね永沢さんは。

 

 短いですが、ユーチューバーの友人のことを知ってからふとそういうことを考えました。

 だから私は、永沢さんみたいにはなりたくないと思いました。

 そういう生き方は進歩がありそうで進歩がない気がするので。

 

 まあ、それも言うは易し行うは難しなんですが......。

30.ファンタジーの描写方法〜安部公房『壁』

 ブログを始めて約4ヶ月がたち、これでちょうど30本目の記事となりました。

 最近は映画の感想が続いていましたが、今回は原点回帰(?)して小説の感想を書きます。

 

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 

 

 安部公房の1951年の芥川賞受賞作『壁ーS・カルマ氏の犯罪』を読みました。

 安部公房と言えば、現実離れした世界をひとつ設定して、その中で生々しい、怖いような、知的で「リアル」な描写をつづっていくという印象がありますが、本作もまさにそういった小説です。

 以下は主人公が胸の中に(比喩でなく)吸い込んだ、雑誌の見開きの荒野の写真についての描写です。

 するとぼくの眼はその頁に吸いつけられるように動かなくなりました。砂丘の間をぼうぼうと地平線までつづく曠野の風景が頁いっぱいにひろがっていたのです。砂丘にはひょろひょろした潅木、空には部厚い雲が箱のように積み重なっていました。人影はありません。家畜はおろか、カラスの影さえ見えません。曠野を一面に覆う草は針金のようにやせて短くまばらで地面がすけて見えるほどです。草の根もとには砂がさらさらと風に流れてひだをこしらえています。(p28) 

 

 また以下は、「せむし(背骨の曲がった人)」と呼ばれていた者が腰を反らせすぎて「はらむし」になり、しまいには「ロール・パン氏」という呼称に変わって、映写機の前で詩を朗読したあとの場面です(意味不明)。

 ロール・パン氏は、その朗読のあいだも相変わらずそりかえるのをやめようとしなかったので、次第にわけの分からぬ塊りになり、体の各部が互いにめりこみあってついにすっかり消滅してしまいました。最後の一句を言ったときには、もう声だけしか残っていませんでした。

 そんな状態がありうるということを知ったのは、むろんこれがはじめてでしたが、ぼくは大して驚きませんでした。それどころか、そんな無意味な詩を朗読するようなものには当然起りうべきことだとさえ思いました。(p130)

 

 さて一般に優れたファンタジーの描写とは、空想世界にもかかわらずさも手の届く場所にあるかのようにリアルな物体の描写やリアルな心情の描写、と言及できるかと思います。

 で本作はどうかというと、まず本作では物体の描写はあまり詳細には行いません。

 「名刺が手を伸ばした」みたいな文を書いておいて、それ以上名刺からどういう風に手が生えているのかみたいなことについては描写しません。

 それがひとつ本作の大きな特徴だと思います。

 対して心情の方は、結構細かに描写します。

 細かと言うか、そういう状況であればこういう風に感じるだろうということを、リアリティー溢れる文章で叙述します。

 さっきの2つ目の引用の2段落目みたいな感じです。

 本作にはそういった「漠とした物体、くっきりとした心情」みたいな姿勢が一気通貫しています。

 

 それにしても、こういう風なたいぶ「ふざけた話」を、ちゃんと小説に仕上げることのできる筆力は、とても羨ましいですね。

 『壁』みたいなのが書けるんだったら、もう何書いたって小説が成立しちゃうっていうっていう感じがしますよね。

 私はこれまで主人公が女性であったり聾者であったりする小説を(趣味として)多く書いてきたのですが、これは私自身とは異なる人種を主人公に置いているということであって、つまりある意味でファンタジーを設定しているということです。

 「作り話」の想像を膨らませることが面白いし、また巧妙な感じがするっていうのもありますし、そこに間接的に自分の普段考えていることを投影できた瞬間というのが快感であったり、まあそうする理由はいくつかあると思うのですが。

 とにかくファンタジーの描写というのは、私にとってはそれなりに大きなテーマであって、私小説の対極に位置づいた作り話の純文学みたいなものに、私はいつからか強い関心を抱いていました。

 そういう都合があって、本作は、というか全体的に安部公房の作品は、私にとって恰好の文学教材となっています。

24.長編小説を書くということースコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』村上春樹訳

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

  本作を読んでいる最中から、私は小説について、小説を書くことについて、そしてまた私が小説を書くということについて、絶えず考え続けていた。

 ずいぶん哀しくて、ずいぶん嬉しくて、全体としてずいぶん沈んだ気持ちになった。

 本作によって抱いた感懐の半分は、30ページ程度の村上春樹の訳者あとがきによるところでもあるのだが、それは言うまでもなく『グレート・ギャツビー』本編を読んだ上で抱き得たものである。

 

 本作は1925年、フィッツジェラルドが28才のときに世に出た300ページ程度の長編小説で、作者の最高傑作であると言われている。

 主人公が、隣に豪邸を構えていたギャツビーという男と関わった数ヶ月の出来事について回顧する話。

 私が読んでいて、ぐっと引き込まれ始めたのは、3章の冒頭のギャツビーの邸宅の庭で催される連日の宴会の描写辺りからだ。

 隣家からは、夏の夜をとおして音楽が流れてきた。青みを帯びた庭園には、男たちや娘たちがまるで蛾のように集まって、ささやきや、シャンパンや、星明かりのあいだを行きかった。午後の満潮時に客たちが浮き台のやぐらから海に飛び込むのを、あるいは熱い砂浜で日光浴をするのを、僕は眺めた。そのあいだギャツビーの二艘のモーターボートが海峡の水面を切り裂き、ボートに引かれた水上スキーが、泡の奔流の上を滑っていった。週末になると、彼の所有するロールズ・ロイスが乗り合いバスとなり、朝の九時から未明の時刻まで、人々を乗せて街と屋敷のあいだを行き来した。そのかたわら、彼のステーション・ワゴンは活発な黄色い甲虫みたいに、てきぱきとすべての列車を出迎えた。そして月曜日になると、八人の召使い(うちの一人は臨時雇いの庭師)がモップとデッキブラシと金槌と植木ばさみを手に、前夜のどんちゃん騒ぎがもたらした被害を一日がかりで修復するのだった。 (p77)

  長編小説ゆえに、話の展開やその感想を取捨選択して述べることが難しく、すこし抽象的に書かざるをえなくなってしまうのは、私の力の至らなさであろう。

 海外文学の翻訳であるため、とりわけ普段国文学に親しんでいる私にとっては、新鮮な言語表現にたびたび出くわした。

 それに当たり前だが、作品が「長い」ということはそれ自体強力なことである(このことについてはまさに村上春樹が自身のいくつかの小説の中で言及している)。

 

 私は本作がクライマックスに近づくにつれて、早朝のファミレスで、タバコを吸う手が止まらなくなった。

 文字を視線で追いながら、他の体の部分が何かしていないと心地悪い感じがして、次々タバコの先に火をつけた。

 なんというか煙を吸ったり吐いたりするのは、うってつけな感じがあった。

 私は普段タバコを吸わないのだが、たぶん今自分はもっとも正しいタバコの使用法をしているんじゃないかとすら思った。

 

 いろんな言葉に出くわすたびに、ああ数日前まで自分が書いていた小説になぜこの言葉を使わなかったんだと何度も悔いて、閉塞感が際限なく増していって哀しくなった。

 自分の書いた小説がものすごく貧弱に思えた。

 

 そして、訳者あとがきの村上春樹の熱量がすさまじかった。

 例えば、作中でギャツビーが頻繁に呼びかけるセリフ「Old sport」をどう翻訳するのか20年の歳月考え続けて、結局「オールド・スポート」と原語のまま訳したという話があった。

 いや村上春樹が20年かけて翻訳した作品なんて、誰もかなわないよ、お手上げ、という感じだった。

 あとがきで村上春樹は、翻訳の苦労と、自分がいかに『グレート・ギャツビー』が好きかという話と、フィッツジェラルドの作家人生について書いていた。

 私はそのあとがきを読んで、なんというか、温かい嬉しい気持ちになった。

 この気持ちは、私が純文学を読んだり書いたりすることの唯一最大の原動力とほとんど同じものだった。

 すごく大雑把に言うと、フィッツジェラルドめちゃ頑張っとるやん、春樹めちゃ頑張っとるやん、てかお前ら半端ない作品書いとるやん、て叫び出したくなるような感情。

 それとあとがきでは、村上春樹が翻訳の一番の協力者として柴田元幸氏の話をしていて、私は1年ほど前に大学で柴田氏の翻訳の授業を取っていたのだが、別段深い関わりはなかったが、それでも授業中に二、三言言葉を交わしたことがあって、うまく名状しがたいけど心に何か切迫して詰め寄ってくる感覚を覚えた。

 

 今は、いろんなことがどうでもよい陰りになって見える。そうしていくつかのことが、遠くの方で鋭く尖り燦然と光っている。

 とにかくいい小説を書き、世界のあらゆることに対して、自分自身に対して応答すること、それだけが私が将来に抱く唯一の希望であるということを、改めて実感した。

 

 表現が大仰すぎたとのちのち思い返すかもしれないが、あえて譲歩せずに、今回の感想は粗野に言葉を連ねてみた。