文学の凝縮、アイドルの拡散

24.長編小説を書くということースコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』村上春樹訳

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

  本作を読んでいる最中から、私は小説について、小説を書くことについて、そしてまた私が小説を書くということについて、絶えず考え続けていた。

 ずいぶん哀しくて、ずいぶん嬉しくて、全体としてずいぶん沈んだ気持ちになった。

 本作によって抱いた感懐の半分は、30ページ程度の村上春樹の訳者あとがきによるところでもあるのだが、それは言うまでもなく『グレート・ギャツビー』本編を読んだ上で抱き得たものである。

 

 本作は1925年、フィッツジェラルドが28才のときに世に出た300ページ程度の長編小説で、作者の最高傑作であると言われている。

 主人公が、隣に豪邸を構えていたギャツビーという男と関わった数ヶ月の出来事について回顧する話。

 私が読んでいて、ぐっと引き込まれ始めたのは、3章の冒頭のギャツビーの邸宅の庭で催される連日の宴会の描写辺りからだ。

 隣家からは、夏の夜をとおして音楽が流れてきた。青みを帯びた庭園には、男たちや娘たちがまるで蛾のように集まって、ささやきや、シャンパンや、星明かりのあいだを行きかった。午後の満潮時に客たちが浮き台のやぐらから海に飛び込むのを、あるいは熱い砂浜で日光浴をするのを、僕は眺めた。そのあいだギャツビーの二艘のモーターボートが海峡の水面を切り裂き、ボートに引かれた水上スキーが、泡の奔流の上を滑っていった。週末になると、彼の所有するロールズ・ロイスが乗り合いバスとなり、朝の九時から未明の時刻まで、人々を乗せて街と屋敷のあいだを行き来した。そのかたわら、彼のステーション・ワゴンは活発な黄色い甲虫みたいに、てきぱきとすべての列車を出迎えた。そして月曜日になると、八人の召使い(うちの一人は臨時雇いの庭師)がモップとデッキブラシと金槌と植木ばさみを手に、前夜のどんちゃん騒ぎがもたらした被害を一日がかりで修復するのだった。 (p77)

  長編小説ゆえに、話の展開やその感想を取捨選択して述べることが難しく、すこし抽象的に書かざるをえなくなってしまうのは、私の力の至らなさであろう。

 海外文学の翻訳であるため、とりわけ普段国文学に親しんでいる私にとっては、新鮮な言語表現にたびたび出くわした。

 それに当たり前だが、作品が「長い」ということはそれ自体強力なことである(このことについてはまさに村上春樹が自身のいくつかの小説の中で言及している)。

 

 私は本作がクライマックスに近づくにつれて、早朝のファミレスで、タバコを吸う手が止まらなくなった。

 文字を視線で追いながら、他の体の部分が何かしていないと心地悪い感じがして、次々タバコの先に火をつけた。

 なんというか煙を吸ったり吐いたりするのは、うってつけな感じがあった。

 私は普段タバコを吸わないのだが、たぶん今自分はもっとも正しいタバコの使用法をしているんじゃないかとすら思った。

 

 いろんな言葉に出くわすたびに、ああ数日前まで自分が書いていた小説になぜこの言葉を使わなかったんだと何度も悔いて、閉塞感が際限なく増していって哀しくなった。

 自分の書いた小説がものすごく貧弱に思えた。

 

 そして、訳者あとがきの村上春樹の熱量がすさまじかった。

 例えば、作中でギャツビーが頻繁に呼びかけるセリフ「Old sport」をどう翻訳するのか20年の歳月考え続けて、結局「オールド・スポート」と原語のまま訳したという話があった。

 いや村上春樹が20年かけて翻訳した作品なんて、誰もかなわないよ、お手上げ、という感じだった。

 あとがきで村上春樹は、翻訳の苦労と、自分がいかに『グレート・ギャツビー』が好きかという話と、フィッツジェラルドの作家人生について書いていた。

 私はそのあとがきを読んで、なんというか、温かい嬉しい気持ちになった。

 この気持ちは、私が純文学を読んだり書いたりすることの唯一最大の原動力とほとんど同じものだった。

 すごく大雑把に言うと、フィッツジェラルドめちゃ頑張っとるやん、春樹めちゃ頑張っとるやん、てかお前ら半端ない作品書いとるやん、て叫び出したくなるような感情。

 それとあとがきでは、村上春樹が翻訳の一番の協力者として柴田元幸氏の話をしていて、私は1年ほど前に大学で柴田氏の翻訳の授業を取っていたのだが、別段深い関わりはなかったが、それでも授業中に二、三言言葉を交わしたことがあって、うまく名状しがたいけど心に何か切迫して詰め寄ってくる感覚を覚えた。

 

 今は、いろんなことがどうでもよい陰りになって見える。そうしていくつかのことが、遠くの方で鋭く尖り燦然と光っている。

 とにかくいい小説を書き、世界のあらゆることに対して、自分自身に対して応答すること、それだけが私が将来に抱く唯一の希望であるということを、改めて実感した。

 

 表現が大仰すぎたとのちのち思い返すかもしれないが、あえて譲歩せずに、今回の感想は粗野に言葉を連ねてみた。