文学の凝縮、アイドルの拡散

99.古井由吉『雛の春』

 

新潮 2019年 07月号

新潮 2019年 07月号

 

古井由吉の新作短編、相変わらずのほれぼれする文章。

 

通常の純文学作家が1ページに1つか2つ、その作家固有の表現を搭載しているとすると、古井はそれが一文ごとに出てくる。

 

 夜には病院のすぐ近くの環状道路の立体交差を渡る車の音がゴトンゴトンと、昔の夜汽車がレールの継ぎ目を踏む音のように伝わる。それにも入院の日のうちに馴れた。家にあって深夜に息を入れに出る南おもてのテラスから聞こえる音とそうも変わりがない。真冬の凍てついた夜にはこれよりも甲高いように冴えて響く。ただ風の渡るように聞こえる夜もある。去年の厳しかった寒の内にはとりわけ耳について、深夜の道を突っ走る人の心を思ったりしたものだ。(新潮2019.7 p10)

 

98.古市憲寿『百の夜は跳ねて』

 

新潮 2019年 06 月号 [雑誌]

新潮 2019年 06 月号 [雑誌]

 

今回の芥川賞候補にあがりました、社会学者古市氏の『百の夜は跳ねて』。氏は前回につづき2期連続の候補入りです。個人的には、NHKで就活の話とかしているのをみて、この人あんま好きじゃねえと思っていたのですが、2期連続ノミネートするくらいの力があるなら、てことでとりあえず読んでみました。

 

まずもって、盗撮を依頼される現代の窓拭き清掃員という設定がよい。文体は通常の語り、死者の声、会話という三色が不連続に織りこまれ、描写は繊細で精緻。が、ときおり文学的素地を欠いた表現も見られる。また蠱惑的に導入された「島」がうまく回収されてない気がし、受賞は難しいと予想。

 

 そこで生まれてはいけないし、死んではいけない。そんな島があるって知ってるか。産婦人科もなければ葬儀場もない。妊娠したり、大きな病気になったら、すぐに島から出な いとならない。その代わり、俺ら日本人でも、何の許可もなく仕事ができるらしい。ちょっと前までは寿司屋もあったらしくてさ。最果ての街で、寿司を握るってどんな気分なんだろうな。俺はパスポートなんてないけど、翔太は持ってるのか。東京だと有楽町に行けばいいんだっけ。(冒頭)

 

97.デヴィッド・フィンチャー『ファイト・クラブ』

 

1999年公開のアメリカ映画。平凡な社会生活への反発心から、主人公らは「ファイトクラブ」なる格闘クラブを立ち上げ、徐々に反社会的活動に手を染めていく話。

 

(文学的な描写としての)いいカットがところどころあった。が、後半のネタバレ以降は低調で、終始興ざめの感じを覚えた。

96.円城塔『道化師の蝶』

 

道化師の蝶

道化師の蝶

 

円城塔はもともと大学の研究員で、『Self-Reference ENGINE』が小松左京賞最終候補となり、なんとこのとき伊藤計劃の『虐殺器官』も最終候補になっていて、結局受賞作は出なかったが、その後両作とも早川から出版された(小松左京賞自体は角川主催)。で、その後『オブ・ザ・ベースボール』が文學界新人賞受賞、本作『道化師の蝶』で芥川賞受賞。

 

ここ最近読んだ小説のなかでは、だいぶ好き勝手やってる。いわゆる前衛的、と呼ばれるようなたぐいの作風。物語性の崩壊のみならず、いち文単位でも、なんとなくイメージの浮かびづらい描写が続いている。ところどころやや難しめの語彙が選ばれている。言語、手芸、友幸友幸(と呼ばれる小説内のほとんど架空の人物)への偏執。こういうのもっと読みたい、とは思わないが、こういうのが書けるのはすごいと思う。

 

 フェズの街の旧市街は世界有数の迷宮都市として知られる。青の門で車は止められ、人や馬がごった返す細い路地では、全てがモザイク状に組み合わされて脈絡なしに現れる。鳥籠の並ぶ店先の角を曲がると突然肉屋が現れて、横には共同の水汲み場があり、ふと風向きによりタンネリから広がるアンモニア臭が淀む一角があり、軒先からは装飾品がずらずら下がり、スパイスがジェラートじみてヘラあとの残る鋭い円錐状の山をなし、共同窯へとパンを運ぶ子供の細い脚がきびきび踊る。(講談社p40) 

 

95.中村文則『土の中の子供』

 

土の中の子供 (新潮文庫)

土の中の子供 (新潮文庫)

 

中村文則が27か28歳くらいのときに書いた芥川賞受賞作。

 

冒頭からずっと読みやすい。それは、暴力や死がからんだ吸引力ある展開と、平易な語彙空間ながら処々に隠れたうまい表現がもたらしている。個人的には中村文則は、「大衆受けもする純文学」のひとつの完成形のようなイメージがある。

 

 シャベルが土を掬う音。暗がりを弱々しく照らす懐中電灯の光、その向こうに、脅えたように顔を引きつらせながら、慌ただしく何かを話している彼らの表情がぼんやりと見える。仰向けの幼い私に、少しずつ土がかけられていく。あの時、目が覚めた私の見た光景はそういうものであり、彼らが私に加え続けた、暴力の結末だった。目が覚めたばかりだったが、また、酷い睡魔に襲われる。通常の眠りとは明らかに異なった、抵抗し難い、強いられるような感覚だった。身体が少しずつ押されていく中、音や、声が薄れていく。口の中に、土や砂が入る。だが、それを吐き出す力も、そうしようとする気持ちも、私の中にはなかった。ただ小さく咳をしたいという微かな衝動を、微かな力で押さえただけだった。(新潮社p78) 

 

94.金井美恵子『愛の生活』

 

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

 

金井美恵子が20歳のときに書いた処女作で、第3回太宰治賞の最終候補(1967)。

 

こういう作品にたいする向き合い方というのはむずかしい。最近よんだ伊藤比呂美ラニーニャ』もそうだが、物語の輪郭が薄く、ふうがわりな言葉の運び方、センテンスのつなぎ方によって、詩的空間をこねるような作品。もうすこし言及すれば、この二作の共通点として語彙の平易さと大胆な語尾の変化があげられる。やや乱暴に形容すると、37歳くらいの文化系主婦がアールグレイすすりながらよんでそうな小説。

 

もちろん筆力や構想のすごさは認めるいっぽう、個人的には読んでいて退屈さをおぼえることが少なくなかった。ただ、こういう清流の垂れ流しみたいな小説は、読み手のコンディションに依存する部分が大きいと思うので、いまの自分の気分に向いていなかっただけかもしれない。

 

あと、段落が変わるときに字下げしてたりしてなかったり、という謎の特徴がある。

 

 一日のはじまりがはじまる。

昨日がどこで終ったのか、わたしにははっきりとした記憶がすでにない。

昨日がどんな日であったかを、正確に思い出すことがわたしには出来ない。枕元の時計を見ると十時だ。昨日の夕食に、わたしは何を食べたのだったろう?(冒頭) 

 

93.片渕須直『この世界の片隅に』

 

この世界の片隅に [DVD]
 

すこしまえにはやっていたやつ。もともと漫画、映画よりもっと不思議で怖い感じの。2016年に公開して、いまだ上映している場所があるらしい。

 

場面転換がハイスピード。戦争ものなのに心情描写がさらさらしていて、異常にねばりけがない。主人公が途中で右腕をうしなったときも、ほかの登場人物がそんなに心配してない、終始からっとしている。キスシーンが微妙にえっち。