アクロバットな文章を書く作家というのがいます。
まあ、アクロバット、と一口に言ってもいろんな種類があると思いますが、私の言いたいのは、なんというか、普通の論理感覚だとそういう文章にならないだろう、と思っちゃうような文章のことです。
冷静に一読すると意味のよくわからない文章、前後とのつながりが、大胆に飛躍した文章、などです。
以前とりあげた保坂和志氏の執筆姿勢なども、ここで言うアクロバット的なものと重なる部分があろうかと思います。
そして今回読んだ小説も、まさにそういったアクロバットな文章を味わうことのできる作品です。
『三匹の蟹』は大庭みな子の群像新人賞受賞作かつ1986年上半期の芥川賞受賞作です(この回の芥川賞は丸谷才一も同時受賞しています)。
選評をみると、とりわけ川端康成が「『三匹の蟹』と決めて迷わず、迷わせてくれるような作品をほかに見なかった」と絶賛しているようですね。
さて、さっきから私が繰り返しているアクロバットという言葉にかんして、本作では特に会話文(とそれらをつなぐ地の文)においてそういう性質が見て取れます。
そもそも登場人物が多くて、その上誰が喋っているのかの説明があまりないし、また会話の内容が突拍子もなく切り替わったりするので、読者は流れで補完しながら読んでいく必要があります。
5、6人くらいで話しているシーンはうまく引用するのが難しいので、ここでは主人公由梨と10才の娘の梨恵の会話シーンを引用します(ページ番号は小学館P+D BOOKSによる)。
洗面所の鏡に向ってアイ・ライナーをひいていると梨恵がやって来て、手を後に組んで女校長みたいな口調で言った。
「ふん、ママ、若く見えたいのね」
「そうよ。女は誰でも若く見えたいのよ」
「だけどね、ママ、みんな梨恵がいるのを知っているから、少くとも三十より若いとは思わないわよ」
「十六ぐらいで子供を生む女のひともいるわよ」
「そういうのは不良少女よ」
「どうお、ママ、二十六に見えると思う?」
「梨恵はもう知っているから、知らない時のような気分になれないのよ」
「何だって、何時まで其処に突っ立っているの。ひとを批評ばかりするのはよくないことよ。殊に女の子は嫌われます」
「おしっこをしたいのよ。だから待ってるの」
「ママは男の子じゃないから、横を向いていてあげるわ」
「いいわよ。また後で」
梨恵はお下げの髪をぷいとはね上げて出て行った。(p277)
抜群のセンスですね(笑)
アクロバットとは関係なく、もちろん、普通にいいなと思う文章もたくさんありました。
横田夫人はしとやかに注意した。そして鼻の脇に貧しい皺を寄せて笑った。華やかなひまわり色の装いの中ではその貧しい皺は、く、く、という小鳩のようなしのび笑いの中で、女らしいつつましやかさを想わせる翳にしかならなかったが、もう四十年たったら、ひ、ひ、という猿のような笑いになるのだわ、と由梨は思った。彼女は女達の持っている、自分と同質の故にあまりにもよくわかりすぎる媚態、貧しい計画、情熱の無いささやかな享楽に対する憧がれ、というようなものを感じとると、吐き気の為にめまいがする程であった。吐き気を催させる毒気というものは由梨が自分自身の中で製造しているものであったから、自分の肝か何かを切りとってしまわない限りどうにもならないものであった。(p294)
という感じで終わろうかと思います。
小学館は純文学の文芸誌は刊行していませんが、今回私が読んだ「P+D BOOKS」という、昭和文芸の(かなり渋い)作品ばかり扱っている、通常より規格の大きな単行本のシリーズをここ数年刊行し続けているようです。
(なんと『三匹の蟹』の発売日はつい一ヶ月前!)