文学の凝縮、アイドルの拡散

13.食の描写について

 小説における食の描写にはその作品の特徴がよくあらわれる気がする。

 作品によって、そもそも食の描写の多さに差があるし、選択される料理の種類や、食べる行為を描写するさいの追いかけ方など、よく観察するといろいろ違いがあって面白い。

 これは単に作品ごとに通底する文体の違いに起因しているだけ、といえばそれはそうなのだけれど、それにしても食の描写は他の場面の描写に比べて特別な力を持っているように思われる。

 他の読者はどうか知らないが、少なくとも私は、性描写や肉体労働の描写のような身体感覚を喚起させる他の類の描写よりも、食の描写の方がなんというか、「リアル」に感じることが多い。

 小説世界から現実の感覚へ、すっと接続してしまうような経験をする。

 さて、手元にある書籍群から食に関する描写を適当に引用して比べてみよう。

 

 なにも知らない伸樹さんは、揚げたての天ぷらにかぶりついていた。アーサー入りのだし巻きたまごも、角煮も、にんじんしりしりも、ソーキそばも、アイスクリームも、おいしそうに食べていた。(たべるのがおそいVol.3『白いセーター』今川夏子:p9)  

 

父は偏食で子どもの頃は砂糖水しか飲まなかったとか学校に通うようになってもまだオフクロのオッパイを飲んでいた、遊んでいて咽が渇くと「うち行ってオッパイ飲んでくる」と言って咽を潤してまた遊んだという話も面白いから憶えている。(講談社文庫『地鳴き、小鳥みたいな』保坂和志:p42)

 

 そのうち、神田駅より合流してきた中年男は、何度となくこのバスの中で見た覚えもある肥満体だったが、これが貫多の隣りの席に座ると、すぐさま紙袋から惣菜パンみたいなのを取り出しムシャムシャやり始める。コロッケか何かを挟んでいるらしく、ソースの何んとも云えぬ香ばしい、よい匂いがイヤでも彼の忘れかけていた空腹感を刺激してくる。チラリと視線を向けてみると、次にその中年男はサンドイッチの袋をも開いたようで、砕いた茹で卵の匂いが横合いより一気に立ちのぼってくるのである。おまけにその男は、コールスローのようなパック詰めのサラダまで買ってきたらしく、それを匙を使ってシャクシャク小気味よい音を立てながら悠然と食っている様子に、根が堪え性に乏しくできている我儘者の貫多は、何かこの男をいきなり怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られたが、またチラリと眉根を寄せた目を投げると、ちょうどその男はサラダの容器に分厚い唇をつけ、底に溜まっていた白い汁みたいなのをチュッと啜り込んでいるところだったので、これに彼はゲッと吐きたいような不快を感じ、慌てて窓外へと視線を転じた。が、そのおかげで途端に空腹感の方は薄れ去るかたちとなってくれる。(新潮文庫苦役列車西村賢太:p20)

 

 一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻をまきちらした。(講談社文庫『風の歌を聴け村上春樹:p15) 

 

私が狙うのは、タンクの下に置いてある、白い小皿に盛られた試食用のコーンフレーク。ザラッと手でつかんで食べ、全種類制覇を目指して、小皿の中の半分くらいを食べたら、次の種類へ行く。朝、小皿に盛られたばかりの試食のコーンフレークは、どの種類も香ばしくておいしい。その中でも、甘くて軽いシンプルな味の、生成り砂糖のコーンフレークが一番好き。あとレーズンの混ざったコーンフレークもおいしい。手で掬って口まで持っていって食べた。この試食が、私の朝ごはん。(河出文庫蹴りたい背中綿矢りさ:p40) 

 

 こう並べてみると、それぞれ個性的で面白い。

 これら5つの引用文について、食の描写の効果を簡単に考えてみよう。

 

 『白いセーター』の場合は、表現が直接的で(ここだけ読むと)素人が書いたかのようにも思える。

 けれどこれが主人公(書き手)の人物描像のためのある種のイメージ戦略であるならば、こういった描写の方法は、あまり物事を考え込まないとか、いわゆる「情趣」のようなものとは縁がないとか、主人公のそういった類の性格を浮かび上がらせることに寄与している。

 

 『地鳴き、小鳥みたいな』の場合は、ここ以外食の描写が一切ないのだが、そのこと自体が特徴的であり、当該作品における「スピーディで不規則な自分語り」を強調する効果があるように思われる。

 

 『苦役列車』では安物の飯を隣で食べている中年の様子をべったり描写することで、主人公の食への執着、豊かさの渇望みたいなものが表れているように思う(かといって貧困生活を脱出するための実行にはうつらないこととも対比となっている)。

 

 『風の歌を聴け』では、ウィットに富んだ風な比喩表現、ビールやピーナツといったワードチョイス(村上春樹が偏った料理しか小説に登場させないことはよく知られたことであろう)が、作品全体を通しての「お洒落さ」のようなものを構成する大きな要因になっていそうだ。

 

 『蹴りたい背中』の引用文では、主人公の「子供らしさ」が強調されているし、コーンフレークの種類をわざわざいくつも書くことが、主人公の「オタク気質」みたいなものを際立たせているようである(作中では蹴られる側の「にな川」の方がオタクなのであるが)。

 

 といった具合で食の描写について考えてみました。

 食べ物を登場させることは、それ自体が読者に対して強い実感を伴う記号的な印象を与えることになると思うので、小説においてあまり目立ちはしないけど案外奥が深そうです(適当)。

 

 なお引用した書籍は下記です。

 

文学ムック たべるのがおそい vol.3

文学ムック たべるのがおそい vol.3

 

 

地鳴き、小鳥みたいな

地鳴き、小鳥みたいな

 

 

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

 

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)